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Hello 山岸飛鳥 さん     
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プロフィール
HN:
山岸飛鳥
HP:
性別:
男性
職業:
木の家プロデュース
趣味:
きこり
自己紹介:
木の家プロデュース明月社主宰
木の力で子どもたちを守りたい
田作の歯ぎしりかもしれないけど
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  木の家木の家といっても、だれでもいつでもすぐに手に入るものじゃあない。思っているほど高くはないけれども、かといってみのもんたさんご推薦の○○ホームのようなわけにはいかない。それに、これから家を建てようという人自体が少数派だ。1年以内に家を建てようなんていう人は、全体の1~2%にすぎない。その大部分は建売りか売建て住宅の購入だし、20%くらいは大手の住宅メーカーだ。だから、本物の木の家にたどり着く可能性のある人は、ものすご~く少ない。砂漠の針というか海の中のイクラというか、そのくらいの確率しかない。
 で、そのくらいの稀少な人たちがイザ木の家が欲しい、と思ったときにどうしたらいいんだろうか。「そりゃもちろん私に連絡してくれればいいんです」と宣伝もしつつ、しかし、全国の木の家ファンがどっと連絡してきたらパニックになるなあ、なんてバカな話をしていないで現実的なところを考えてみる。
 
 少数派とはいえ、まずはこの家を建てる人のことからこの章では考えてみよう。さっきも言ったように、誰に頼んだらいいんだろう というのがまず最初の悩みになるだろう。インターネットや広告で「木の家」とか「自然素材」とかをうたっている工務店は、山ほどある。玉石混淆で、どれが本物でどれがにせものか。悪い会社じゃなくても、いろんな流儀の会社があるだろう。なにより、いくらいい家でもあまり高い値段では、子どものためのいい環境を作るつもりが、ローン地獄になってしまう。本末転倒だ。などなど 悩みはつきない。
  ○○ホームみたいに、極端な低価格を売り物にしているところは別として、ほとんどの住宅メーカーとならば木の家は価格的には充分に勝負できる。私の経験範囲でいうならば、住宅メーカーよりは少し安い目にできあがる。もちろん何にこだわるかによるし、キッチンや風呂なんかの設備機器で家の値段は大きく変わってしまう。
 それと、もうひとつ大きく値段に影響するのが、工務店の体質。大手メーカー以外の工務店も千差万別。規模も違えば収益構造も違う。工務店ほど業界としての標準化がされていない業界も珍しい。そして、なによりビックリするのが、いまだに「かかっただけ請求する」という工務店があることだ。予算も見積もりもなくて、工事をやってみたら結果○○円かかりましたので下さい、という方式だ。なんでこんなことがまかり通るのかというと、ちょっと昔は大旦那の家には出入りの大工がいた。そういう大工は、頼まれた仕事をして、かかった分だけ請求した。大旦那も太っ腹にそれを払ってやった。そんな古き良き時代の名残なのである。
 しかし、今どきのお客さんにそんなことをしたら、消費生活センターに電話したりして大騒ぎになる。ヘタをしたら裁判沙汰だ。それくらい、工務店の営業している環境によって、違いがある。まったく見積もりもしないような工務店が、いきなり一般人の住宅を建てることはない。住んでる世界がちがうから。けれども、そういう体質を色濃く残した工務店が、実は木の家の世界には多いのである。見積もりはするし、かかっただけ何でも請求できるとは思っていない、さすがに。でも、見積もりはおおざっぱだし、何より「予算ありき」という考えがものすごく希薄だ。
 
 「予算ありき」が良いことだ と言いたいんじゃない。予算ありきが、結局は下請け泣かせになり、偽装請負になり、派遣切りになっているのだから、何でもカンでも安ければいいという根性は、結局まわりまわって自分のクビを絞めているということくらいは私にもわかっている。でもだからといって「予算はかかっただけ」では、大金持ちの旦那衆でもないかぎり付き合いきれない。このくらいのものならば、このくらいの予算でできるはずだ、という相場観がなくては、家を建てようという人からすればたまったモンじゃない。
 プリウスが150万なのか250万なのか発注してみなくてはわからない、では誰も買えないでしょ。ところが、家の場合はそういうことが日常茶飯事におきている。この業界のまっただ中にいると感じなくなってしまうけれども、冷静に考えたらやっぱオカシイ。
 家は一品生産だから、トータルの価格はまちまちになるのは仕方がない。が、部分ごとの値段は相場があってしかるべきだろう。同じ壁紙を貼るのでも、工務店によって1000円だったり1500円だったりする。同じ工務店でも1割2割は単価を変えたりすることは普通にある。お客さんの懐具合を見ながら加減する。シビアなお客さんには安くして、その分鷹揚なお客さんからいただくという寸法だ。これはどう考えても反則だ。いい人が損をする。
 予算の中でどれだけのことができるのかということと、職人の生活が成り立つということのギリギリのせめぎ合いを真剣に考えるのかどうか。ここに工務店の資質、体質がある。残念ながら、木の家を得意とする工務店には、どちらかというとその真摯さが希薄だ。「掛かるモノは掛かるんだから仕方ない」という頭が抜けないうえに、こっちの家で損した分をあっちの家でボッタくろうという考えもアタリマエのようにまかり通っていたりする。
 しかもそうした工務にかぎって、技術的にも問題を抱えている。木の家業界では名の通った工務店が、耐震構造に関わる釘の種類すら知らなかったというような恐ろしい現実をいくつも目にしてきた。私が監理をするより以前にあの工務店が建てた家は、そうとう高い確率で欠陥住宅にちがいないのだ。あれ以降は、ちゃんと認識してくれていると信じたいが・・・
 今から家を建てようという人は、この辺をチェックポイントにして工務店を選ぶのがいいと思う。ホームページの雰囲気や建てた家の写真からだけでは、こうしたポイントはわからない。ひとつの目安は、見積書の正確さだ。工事する面積を正確に算出しているか、それに対してマトモな単価をかけているか。それをわかりやすく見積書に記載して、ちゃんと説明ができているか。
 ところが、こうしたシステムはバッチリでも、ひどく人情に欠けるという場合もある。棚板一枚、金物一個でも追加請求になるようなケースだ。家を建てる人にとっては、やってみないとわからない部分はたくさんある。いくら図面で書いてあっても「やっぱり棚がもう一段欲しい」ということはよくある。そのすべてを追加請求されると、施主は大慌てになる。だから、見積もりの1~2%くらいは経費部分で余裕を持っておいたほうが円満に引き渡しできる。上乗せと言えば上乗せだけれども、そのくらいは必ずといっていいほど足を出すから、その辺まで見通して見積もりできるのが、経験であり人情というモノだ。
 ということで、見積書の正確さと、人情味をあわせもった工務店というのが、まず一つ目のポイントになる。
 
 よくある工務店の評価に「昔からここでやってる」というのがある。長年営業していて、ひどい評判が立っていないから良い工務店じゃないの という考えだ。これはたしかに一理ある。少なくとも、悪意のある手抜き工事とかボッタクリはやっていない会社だというのは確かだろう。ただし、歴史の古い工務店ほど「掛かっただけ請求」するようなところが多いし、今どきの技術に疎い場合もある。耐震構造なんて、大地震がこない限り間違った施工をしていてもわからない。ほとんどの家は大地震に遭遇することはないから、間違っていてもバレることはまずない。だから、悪意ではないんだけれども、知識が古すぎるとか間違っているような場合は、地元の評判ではまずわからない。
 このへんは、はっきり言って素人さんには判断不可能な領域になる。イチかバチかその工務店の社長を信じて前に進むか、専門の第3者を間に入れるしかない。それが設計事務所ということになる。つまり、私の職業。ところが、最近は設計をせずに第3者チェックだけするような会社も登場している。今のところ私は直接のおつきあいがないので、どのくらいのチェックをしているのか、どのくらい第3者を徹底しているのかわからないけれども、こういう方法もあることはある。
 いずれにしても、人柄や誠意だけでは技術的に正しい家はできない、ということは憶えていて損はない。欠陥住宅というのは、詐欺師のような会社ばかりが作ってるワケじゃない。本当にいい人たちが、知識がないばかりに「すばらしいできばえの欠陥住宅」を作ってしまっていることが とっても多い。
 
 あとは、「受け売り」ばかりの工務店は避けた方がいい。有名な○○先生の信奉者とか、○○工法に一辺倒とか、そういうのは自分で考える力がちょっと不足している証拠だ。どんな主張にも、どんな工法にも、良い点と悪い点、少なくとも、自分に合うところと合わないところがあるはず。そういう批判精神をどっかに置き忘れてきたような人は避けた方が無難だ。
 いつも私は歯がゆい思いをするのだけれど、トータリティーというのはあまりウケがよくない。逆に、何かひとつがものすごく良い という話はすごくウケる。でも、だいたい「ものすごく」の裏に、いろんな不都合や凡庸が画されている。構造はバッチリだけどシックハウスはあまり考えていないとか、断熱はものすごいけど構造は普通だとか、そういう類がほとんどだ。
 ウケ狙いでなしに家作りを考えるならば、人の生活のいろんな面を包み込む家 というトータリティーが絶対に必要。冷静に、技術者としてそういう面をしっかりと考えている会社であったり社長であったりするならば、点数高いと思う。
 
 子どものために、あるいは自分のために木の家を建てよう、という本当にラッキーな人は、その幸運を無駄にしないように、しっかりと五感を、または六感を開いて前に進んでほしい。
 
 
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  さて、木の家とか木の床とか木の壁とか木の天井とか、まあ何でもいいんだけど、木のナントカというときにどんな木かということは大問題だ。木は木でしょ、と言われるとミもフタもないけれど木は木でもいろいろある。手元の辞書で木の付く字を探すと434文字もある。その中で建築に使われる木は、実はちょっとしかない。というか、三、会、公の3種類で家は建つ。
 木偏に三で杉(すぎ)、木偏に会で桧(ひのき)、そして木偏に公で松(まつ)。他にも、栂とか樅とか栗とか楢とか桜とか言い出せばいろいろあるけれども、とりあえず、杉桧松の三種類があれば家はできる。
 で、どれが一番子どもに優しいかというと、文句なしに杉だ。花粉症で不人気の杉は、柔らかくて肌触りが良く温かくベタつかない。転んでも滅多にケガしないし、裸足であれば適度に滑りにくい。ただし、柔らかいので傷やへこみはあたりまえ。そんなものを気にしていたら杉とはつきあえない。
 桧は、温泉の桧風呂で触ったことがあるかもしれない。杉よりはちょっと堅くて油分がある。桧の独特のニオイはさわやかだ。あまり濃いと頭が痛くなるけれども。水に強いので土に近い土台に使うほか、高級材としていわゆる「和風建築」では目に付くところに使われる。好き好みはあるけれども、桧は晴れがましくて私はちょっと抵抗感がある。杉よりは堅いとは言え、子どもが遊び回れば傷が付くのは同じ。
 松は強度があるので、建物の床や屋根を支える梁に使う。最近は国産の松がほとんどないので、北米産の米松やシベリア産の欧州松がほとんど。この舶来種は松ではなく樅(もみ)の仲間だという説もあるが、性質は松に似ている。国産材にこだわって作るときは、米松を使わずに、杉の梁にする場合も多い。(そうなると2種類で家が建つ) それはともかく、松は床に使うことも少なくないが、油分(ヤニ)が多いので手足の触れるところだとベトベトすることがある。アルコールできれいにはなる。
 そうそう、信州や北海道では、杉よりも唐松(からまつ)が多く植えられている。信州の高原に遊びに行くと、白樺と唐松ばかり見かける。唐松は松のくせに落葉樹で、紅葉したあげく冬のあいだは葉っぱを落とすので、ものすごく寒いとところでも生きていくことができる。冬でも葉がある普通の松は、葉っぱの中が凍ってしまって生きていけないのだと聞いたことがある。この唐松も松の仲間として建築用材に入れておかなくては、雪国の人たちに怒られる。
 
 木のあれこれを話し始めると止まらないので、とりあえずここまでにしておいて、「にせもの」について言っておきたい。言っておきたいというより、言葉の鉄槌を下しておきたい。
 「にせもの」にも何段階かある。一番ひどいのが、プリントだ。紙やビニールのシートに木目をプリントして、何かに貼り付けたもの。ひと昔の家の洋室の壁に貼ってあった木目の板はプリント合板。ベニヤ板に木目をプリントした紙を貼ってあった。紙だから、セロテープを貼ると木目がはがれた。それが発展して塩ビ化粧合板になった。紙じゃなくて塩ビシートだから結構丈夫なのだけれども、樹脂っぽいツヤツヤ感がなんともいえなかった。その後塩ビが良くないということになってオレフィンという樹脂に変わり印刷技術も格段に進歩した。そして今や、ちょっと見た目には私が見てもホンモノかニセモノか分からないくらいの「にせもの」が世の中を席巻している。オソロシイ。
 これが、今の家で見られるほとんどの「木」の正体だ。ベニヤ板か紙を堅く固めたものにオレフィンのプリントシール。床以外は全部といっても良いかもしれない。床はさすがに樹脂ではなく、ホンモノの木をうす~くスライスしたものをベニヤ板やスポンジの上に貼ってある。世にフローリングといわれる代物だ。その上ご丁寧に、ウレタン塗装という頑強で湿気を通しにくいペンキを上からコッテリ塗っているので、手に触れるのは木ではなくウレタンである。
 
 誤解のないようにベニヤ板について一言はさんでおこう。ちょっと実物をご存じの方は「ベニヤ板も木じゃないか」と思われるだろう。ベニヤ板の正体は、桂ムキにした木のうす~いうす~いシートを接着剤で何層にも貼り合わせたものだ。ミルフィーユのパイが木のシートで生クリームが接着剤と思ってもらえばいい。うす~い木と木の間に接着剤の層があるので、木としての性質はほとんど期待できない。しかも、この接着剤こそが悪名高きシックハウスの主犯格ときている。
 そして、この主犯格のベニヤ板を法律で公認してしまったからさあ大変。子どもたちの未来やいかに!! って大げさだと思いますか? いやいや、このくらいではまだ足りない。法律で公認したという国家犯罪は消えるものじゃない。もうちょっと詳しくいうと、2003年に建築基準法が変わった。ここで、シックハウスの原因うち二つだけが規制された。シロアリ薬だったクロルピリホスは全面禁止。ベニヤなどの接着剤に使われていたホルムアルデヒド(ホルマリン)は等級をつけて規制、ということになった。問題は、ここからだ。
 この中で規制を受けない等級としてF☆☆☆☆(フォースター)というものができた。気温28℃、湿度50%のときに揮発するホルマリンが、"一応"人体に影響ないといわれるものだ。それも換気扇を回しっぱなしの環境で だ。このF☆☆☆☆はいくら使ってもOK。なんの制限もない。けど、気温が28℃を超えたらどうなるのか。湿度が50%を超えたらどうなるのか。たとえば、室温が33℃で湿度75%になると、軽く2倍はホルマリンが出てくる。湿度や温度が上がるとほぼ比例してホルマリンの揮発は多くなる。国土交通省の役人も、建材を売っているメーカーもよくご存じ。知らないのは、勉強不足の工務店と住まい手ばかりなり。
 さらに始末が悪いのは、このF☆☆☆☆を国が規制しないと公認したものだから、どいつもこいつも「ノンホルム」とか「シックハウス対策」とか「健康」とか言って売り出したこと。で、何が起きたかというと、それまで細々と本当にノンホルマリンのベニヤ板を作っていたメーカーが製造をやめてしまった。カナダからも輸入されていたのがストップしてしまった。そらそうだ。値段が高くて手間のかかるものを作らなくても、普通のF☆☆☆☆を作っていれば「健康建材」とか言っていられるのだから。おかげで、ちょっとだけベニヤを使うときの材料に難儀することになってしまった。
 繰り返すけれども、F☆☆☆☆はノンホルマリンでも健康建材でもない。ホルマリンの揮発が比較的少ない建材であって、温度湿度があがれば基準を超える可能性も大きい。それも、換気扇を回しっぱなしが前提だ。こういうものを、国はお墨付きをあたえていくらでも使いなさいということにしてしまった。孫子の代に禍根を残す大罪なのだが、シックハウスの規制をしたという面ばかりが評価されて文句を言う人間は少ないのだから、まったくイヤになる。
 
 さて、木の「にせもの」の話を続けよう。プリント系のもの、ベニヤ板系のものと来て次はアマルガム系のものだ。アマルガムといってももちろん金属ではない。合金のように、木と合成樹脂を混ぜ合わせたものだ。詳しい作り方は分からないけれど、プラスティックのどろどろの中に木の粉を混ぜて固めたものというイメージ。何とはなしに木目のようなものがあったりして、不気味な代物だ。反対に、木の繊維の中に合成樹脂をしみこませるというものもあったような気がする。いずれにしても、見た目が木みたいであるということ以外は木じゃないのはこれまでのニセモノと同じだ。
 一体全体、なんでこんなニセモノを作るのかというと、ニセモノは腐りにくいとか伸び縮みしないとかいう特徴があるからだ。要するに、木の特徴は嫌いだけれど木の見た目だけは欲しいという極めてワガママで自分勝手な欲望によってこの世に生み出された。
 この都合の悪いところはオミットして都合の良いところだけつまみ食いしたいという欲望は、偽札を含めてあらゆるニセモノの誕生に共通している。そして、この見にくい欲望が子どもたちの心を日々浸食している。ニセモノに包まれた現代の家に住むということは、この欲望のサブリミナルにずっとさらされて生きるということなんだ。おお、考えただけでもオソロシイ。
 アタリマエだけれども、木はもともと生き物だ。生き物である以上は凸凹がある。つまり、色や模様や堅さにバラツキがある。木には枝があり、枝は節になる。生き物だから水を含んでいる。水を含んでるから伸び縮みする。実用に支障がない範囲では、こんなものは個性として楽しく眺めていればいい。
 ところが、かの恐ろしき欲望はそれを許さない。どれも同じ顔、いつも同じ顔を見なくては気が済まない。同じ顔、同じ顔、どこまで行っても同じ顔、そんな木の硬直した表情を並べたフローリングやドアを眺めながら暮らす家が、子どもたちの心に何の影響も与えないと誰が言えるだろうか。
 
 湿気を調整してくれるとか、匂いや見た目にリラックス効果があるとか、触っただけでも脳波が刺激されるとか、物理的生物的な木と人間の良い関係はいっぱいある。それはそれで大事なポイントなんだけど、でも一番大事なのは「あるがままの命を受け入れる」ということ。木という生き物だった素材と触れあうことで、バラツキのあるあるがままの姿を受け入れる感性が育つ。
 私がこの原稿を書いている目の前には、杉の板が貼ってある。一枚として、一箇所として同じ模様はない。色も微妙に違う。年ごとに日に焼けて変化もしている。節穴を覗くのは娘の楽しみだ。時々はささくれ立ってソゲが刺さったりするので、そんなときは磨いてやる。床の傷やへこみはもう数知れず。ひどいところは、スチームアイロンをあてるとむくむくと復元したりする。落書きしても、サンドペーパーで擦ればOKだ。そんなテキトウで大らかでマッタリとした空間がある。
 こういう空間では、子どもたちはほとんど例外なく走り回る。これまで数多くの木の家を作って、その家の子どもや見学に来た子どもたちの様子を見てきた。これは断言するけれども、杉の床、それも色をつけていないもの。そこに子どもが上がったとたん、走り回る。しばらく走ってから転げ回る。子どもが体調不良とかすでに調教されてしまっていない限り、ほとんど例外なくそうなる。これが「ほんもの」の力。頭が良くなるかどうかは知らないけれども、元気で優しい子どもが育つ。
 なんとしても、子どもの環境に木の空間を実現したい。
 
 
 
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