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Hello 山岸飛鳥 さん     
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プロフィール
HN:
山岸飛鳥
HP:
性別:
男性
職業:
木の家プロデュース
趣味:
きこり
自己紹介:
木の家プロデュース明月社主宰
木の力で子どもたちを守りたい
田作の歯ぎしりかもしれないけど
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  私は昔から学校が嫌いだ。少なくとも好きじゃない。よくよく考えてみれば、学校って異常な集団じゃないか。たまたま近くに住んでいるというだけの理由で、朝の8時半から夕方の4時くらいまで、月曜から金曜まで同じ部屋に詰め込まれ監禁される。一人あたり1畳分くらいのスペースというのも、スゴイ話。6畳の部屋に6人が朝から晩まで缶詰になったら、どれほどウットーシイか想像できるだろう。しかも、床の間にはセンセが鎮座していたりする。
 そして、この何の必然性もない集団の中で、友だちを作らなくてはならない。社交的な性格は悪いことではないが、それと同じくらい非社交的なことも悪いことではない。そんな人間にとって、年齢と居住地域以外に何の共通項もないものと友だちになるというのは、とんでもなく苦痛な話だ。子どもは必ず友だちができるものだ、なんていう迷信は、社交的ないわば表側の人たちの言い分であって、ウソではないけれどもことの半分でしかない。
 近くに気の合う子がいなかったり、一人で遊ぶのが好きだったり、人と話すのにものすごく緊張したり、いろんな子どもがいるはずだ。でも、いろんな子どもを認めるということは、集団生活を進行する上では大きな負担になる。1人の先生を3人にも4人にも増やさなくては対応できないとか、そもそも先生の価値観を大幅に広げてもらわなくてはならない。現実は、子どもの都合にあわせて先生を増やしたり、先生の方が変わるなんてことはなくて、学校の都合や先生の価値観に子どもが合わせられることになる。
 で結局、集団生活に効率的なように、みんなに併せて人付き合いのできるのがアタリマエということにされてしまう。その時点で、イジメはもう既定路線だ。かならずおきる。おきないほうがオカシイ。
 
 さかなクンの「いじめられている君へ」という話は有名な話なので聞いたことのある人も多いだろう。中学の吹奏楽部でいじめられている友人と一緒に釣りにいったこと。言葉を交わさなくてもそばにいるだけで、その子がほっとした表情になったことなど。なかでも次の一節は多くのひとが引用している。
 
でも、さかなの世界と似ていました。たとえばメジナは海の中で仲良く群れて泳いでいます。せまい水槽に一緒に入れたら、1匹を仲間はずれにして攻撃し始めたのです。けがしてかわいそうで、そのさかなを別の水槽に入れました。すると残ったメジナは別の1匹をいじめ始めました。助け出しても、また次のいじめられっ子が出てきます。いじめっ子を水槽から出しても新たないじめっ子があらわれます。(朝日新聞2006年12月2日より)
 
 水槽の中の秩序が必要になった時点で、イジメは必然的におきてくる。決まりというのは破るためにある、なんていう言葉もあるように、自然な状態では守られないからこそ決まりなんていうものがある。ほっておいても守られるのなら、わざわざ決まりなんて作られない。息を吐いたら次は吸わなくてはならないという決まりはないように。
 だから、決まりのあるところには、必ずそれを破る傾向のある者が存在する。着替えたり食べたりするのが遅いとか、なにか秩序を乱す子どもは必ずいる。本来そういう子がいるのがアタリマエで、そういういろんな子どもがいるから、それを締め付けるために決まりや秩序を作っているのだから、ちょっとくらい努力しても乱してしまう子どもはかならずいる。もし見た目にはいないとしても、それは、一定の子どもにものすごく大きなストレスを与えている。私自身が、典型的にそういう子どもだったから、骨身にしみてわかる。絶対にそうだ。
 
 今でも覚えているのが、「休み時間は外で遊びましょう」という決まりを学級会で決めたときのことだ。小学校の高学年だったと思う。言われなくても、休み時間はチャイムとともに校庭に駆けだしていたけれども、なんでそんなことを「決まり」にして多数決で強制されなくてはならないのか、強烈に反発を覚えた。今日は外へ出たくないなあ、という気分の子がいてもいいじゃないか。なんで、それを無理矢理ひっぱり出さなくてはならないのか。
 その決議があった日から、私は外へ出なくなった。休み時間も一人で教室にいた。いや、2~3人はいたような気もする。すると、いい子ちゃん代表がやってきて、ちからづくで引きずり出そうとする。机にしがみついて抵抗した。結局、規則違反という判決が下って、午後の授業は床に正座させられたまま受けた。くやしくてくやしくて、涙を流しながら授業をうけた記憶は、今でも鮮明だ。
 これが、教師といい子ちゃんが先導する秩序の姿であり、イジメの構造であると私は確信している。一人一人の人間の許容範囲(物理的な意味でも精神的な意味でも)が狭められていくと、ある限度を超えたところで決まりや秩序が非常に厳しく登場し、イジメも発生する。学校でも会社でもサークルでも公園ママでも、基本構造は同じ。
 
 教師の皆さんの名誉のために一言付け加えておくと、たぶん良い教師だろうが悪い教師だろうが、イジメが起きることはあまり変わらないのではないかと思う。なにが良いのか悪いのかもよくわからないけれども、まあ敢えて言えば、子どものことを真剣に考えている教師でも、自分の都合しか考えていないような教師でも、結果は大きく違わないのではないか。学級崩壊などという目に見えるものは教師のやりかたで結果は変わるだろうけれども、イジメという目に見えない部分も大きなものは、たぶん変わらない。
 さっきの体験談にしても、その当時の担任は専門が体育の男の先生で、実は子ども思いの「良い先生」だったと思う。夏は、他の授業をつぶしてプールばっかりやっていたし、春と秋は野球ばっかりだったし、冬はサッカーばかりだった。他の学年のときの先生と比べても、 あの人はあの人なりに一生懸命に子どもに向かっていたと思う。PTA活動ばかり熱心で子どもの顔なんて見ているのかどうか怪しげな先生とか、いかにもお仕事だからやってますという先生なんかに比べると、正直良い先生だったと思う。だから、必ずしもその先生は嫌いではなかった。
 にもかかわらず、私は今でも「ガキュウカイ」という言葉を聞くと心臓の筋肉が少々キュッとなる。学校運営のための都合を、学級会の多数決という形で秩序化させる構造。それに反抗する者にたいし、これまた子ども同士の正義の制裁という形で罰する構造。これは、今改めて思うけれども、私の心のトラウマになっている。
 もちろん、イジメの場合は、必ずしも学校や教師の望む秩序に沿っているわけではない。その集団で支配的な秩序がなんなのかは、ケースバイケースだろう。共通しているのは、その秩序が集団の生き残りにとって大事なものになっているということ、そこまでその集団が追い込まれているということ。例えば、勉強のできるものが支配的であれば、いわゆるオチコボレがいじめられるかもしれないし、オチコボレが支配的であれば、落ちこぼれていない者がいじめられるかもしれない。それは、勉強できることが生き残り戦略であれば、できない者は見せしめとして生け贄にされるし、勉強できない者の砦を作っている場合には、勉強できる者はその砦を崩す破壊者としては除される可能性があるからだ。どっちにしても、既成の価値観の中で追い込まれ、なんとか生き延びていくための戦略であることには変わりない。
 
 さて、さかなクンのさっきの話を聞くと、私としては山の間伐の話をしないわけにはいかない。山に杉や桧の苗を植えた後の話だ。山に苗木を植えるときは、1ヘクタールに3000本以上植える。奈良県の吉野地方なんかでは、多いときは1万本も植えるという。間をとって5000本としても、1ヘクタールは1万㎡なので1本あたり2㎡、子ども一人あたりの教室の広さと同じくらいだ。やがて杉の木は10年15年と育っていって、枝を伸ばして隣どうしくっついてしまう。こうなると、押されて曲がってしまう木や枝を伸ばせなくなる木も出てくるし、地面に光が届かないので草が生えなくなって土が流されるようになってしまう。そこで、間伐を行う。カンバツということばを聞いたことがなければ、マビキと言ってもいい。大根やニンジンでもやるアレだ。
 流儀はいろいろあるのだけれども、とにかく、曲がった木や育ちの悪い木なんかを切り倒してしまう。そうすると、残った木は良く育ち、下草も生えていい山になっていく。これを、何年かに一度づつ繰り返して、最終的には苗木のときの10分の1くらいまで切って減らしてしまう。そして、その最後の木は高く売れていく、というのが理想的な林業の姿とされている。実際は、そこまで丁寧に間伐している山は多くないし、間伐しても育てても最後の木はそんなに高くは売れなくなってしまったけれど。
 こうした説明をすると、たいがい「なんで1万本も植えるの? 最初から少なく植えたらダメなの?」と質問される。これは答えははっきりしていて、「良い木」を育てるため だ。良い木というのは、まっすぐで、年輪が細かくて、根本と先の太さが変わらなくて、枝の少ない木だ。最初からまばらに植えてしまうと、枝ばっかりのばして、横に太るから年輪が粗くて、根元が太くて先の細い木ができる。それを防ぐために、わざと窮屈な思いをさせて育てて、負け組をどんどん切り倒して、良い木だけを残してやるのだ。
 「木はなんて可愛そうなんでしょ」てなことを言いたいワケじゃない。それを言い出したら、畑の野菜でも、庭の木でも、花壇の花でも、人間の育ててるものなんてみんなそんなもんだ。ブロイラーのニワトリも養殖場のハマチもみんな一緒。ここで言いたいのは、子どもたちを杉や桧と同じような育て方をして良いのか ということ。そして、今の「イジメをなくそう」という大合唱は、「間伐をしよう」という呼びかけのように聞こえる ということ。
 
 イジメというのはある一面では、真っ直ぐでない木でも生きていく可能性を残している。もちろん、それは真っ直ぐな木や、もっと曲がった木を押しのけていくのであって、それをOKというのではない。けれども、少なくともそういう一面はもっている。でも、イジメ粛正キャンペーンは、曲がった木は根こそぎ切り倒して切り刻んでしまえ、という。イジメは犯罪だから、学校はすぐに警察に電話しろ、告訴しろ という。
 これは、間伐して障害樹を伐採せよ、という話とまったく同じだ。でも、なんで間伐をしなくてはならないのか。それは、そもそも人間が使いやすい木を育てるために、やたらとたくさんの苗木を植えたからだ。最初からまばらに植えてあれば、商品価値はない木がノビノビと育つはずだ。
 間伐というのは、偶然曲がった木があるからするものじゃない。はじめから、そうなることがわかっていて、計画的にする。イジメ粛正キャンペーンも同じで、確信犯だ。いじめっ子が出てくることがわかっていて、それを計画的に抹殺しようとしている。
 しかも、曲がった木が真っ直ぐな木をいじめているときには、バサバサと間伐されるけれども、真っ直ぐな木が曲がった木をいじめているときには、これは伐採されることはない。私が経験したように、学校の都合を多数決で押しつけるような行為は決してイジメとは認定されないし、もちろん告訴されるわけがない。曲がった木、商品価値のない木だけが、間伐されていく。
 
 原生林に真っ直ぐな木はない。商品価値なんてない。白神山地で有名なブナなんて、木偏に無と書くくらいだ。でも、息をのむほどに美しい。これが、命の本来の姿なんだと思う。建築に使う木も、これまでの価値観を1回壊す必要がある。年輪が密で、真っ直ぐで、節がなくて・・・ それはそれで良いことだけれども、そうでない木でも場所によって充分使えるし、しかもキレイだ。
 最近の若い人は、節がある方が好きだという人も多い。山で木を育ててきた人たちにしてみれば、苦労して育てたのだからその価値を認めて欲しいと思うのは人情だけれども、そろそろ価値観を発展させる必要がある。既に、日本の山は手入れ不足が深刻なのだから、曲がった木は曲がったなりに、節のある木は節のあるなりに楽しむのが一番いい。そういう木を、学校にこそ使いたい。
 おもいっきり「ちゃんとしてない」木を使って、「ちゃんとしてない」人間が育つ場所であって欲しい。せめて許容される場であって欲しい。「ちゃんとしてない」ぶんだけ、優しくあってくれれば、自分のしたいことを感じてくれれば、もうブラボーだ。
 
 各地の学校や教育委員会にも、心ある人たちは決して少なくないと思う。学校嫌いの私でも、実は密かに信じている。ただ、国に縛られ、知事にいじめられ、常にクビになる恐怖と隣り合わせなんだから、本当にお気の毒だと思う。せめて、子どもたちのあるがままを見つめる場を作ってほしい。そして、そんな場所には山の曲がった木が最適だ。皆で山に行って、もらってきてはどうだろう。学校の実習として森林組合なんかに相談すれば、よろこんで協力してくれるところもたくさんある。私に相談してもらっても、少しは力になれるかもしれない。
 粛正キャンペーンに全国の学校が染まってしまう前に、微力だけれども、ひとつの突破口になりはしないだろうか。


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  小学校3年生の娘が、いきなり「ちのつながりってなに?」とカミさんに聞いている。カミさんもちょっと驚いてなんやらかんやら言いながら説明している。お母さんとの血のつながりはわかっても、お父さんは?と聞かれたらどう答えようかとオロオロしていたけれども、幸いお鉢は回ってこなかった。
 正確には、血はつながっているのではなく、遺伝子がつながっているだけだ。お腹の中にいるときだって、血液自体は別に流れているのに、なんで血のつながりというんだろうか。血族とか血脈とか血は水より濃いとか、生んだものと生まれたものとの関係は単なる親と子という関係を超えて「血」という連綿と続くものに帰属させられるようだ。
 親と子の関係は、自然の摂理からしても赤ちゃんは育てなくては死んでしまうという事情から理解できる。けれども、長い長い「血」のつながりはどう考えても自然の摂理からは理解できない。もっと社会的な必要から生じているにちがいない。要するに、争いのための基本集団づくりということ。争いではなくて、生産のためだけの集団化であれば血脈にこだわる必要はなかっただろうが、狩りのなわばりや水の権利や何やかんやで争いの絶えないとき、できるだけ結束を固めて裏切り者を出さないために血脈が重視されたのではないだろうか。
 
 今の家族関係には、その両方の面が残っているような気がする。赤ちゃんを育てるための親子関係と、社会の中で争うための血族集団。育てるという気持ちは、ほとんどの場合は説明が必要ない。義務感でも責任感でもなく、赤ちゃんを見ているだけで育てたいという気持ちは湧き出してくる。
 一方で、争うための集団としての家族はなかなか大変だ。世の中が生き難くなればなるほど、その締め付けは厳しくなる。比較的平和で、争わなくても生きていけるときには、その締め付けはゆる~くなる。どっちが良いとかいう話ではなくて、結果としてそうなる。
 江戸時代や戦争中に家族の制度が非常にきついものだったのはご存じの通り。オヤジの権威は今の100倍以上強かった。囲炉裏端の主人が座るヨコザは、お客ですら座れなかったという。まして子どもが座ろうものなら、家からおん出された。それから数十年たって1970年代、高度経済成長を経た日本にはマイホームパパが出現し、家族は仲良し集団に解消されつつあったのだが、それを押しとどめたのは受験戦争だった。争いの形態が変化するに伴って、家父長を中心とした家族制度は、子どもを中心とした受験装置に変貌した。かつての主人の座だったヨコザの地位は、子どもの勉強部屋にとって代わられた。夫婦が台所の片隅に布団を敷いて寝ていても、子どもの勉強部屋は確保された。
 これはもちろん、子どもが大事にされたということではない。過保護であろうがスパルタであろうが、受験戦争に駆り立てられた子どもは、かつて戦場で手柄をたてて一家をもり立てようとした家長の姿と重なる。その後、「ゆとり教育」がいいとか、いや「言うとおり教育」がいいとかいろいろ議論はあるけれど、そんなのは大同小異であって、子どもを現代社会で戦って勝つための「兵士」として扱っているのはおんなじだ。
 
 今、親になっている世代は、受験戦争の勝ち組か負け組だ。必死に勝ち抜いてきた親は、子どもにも勝ち抜いてもらいたいと思うし、勝てなかった親は子どもには勝ってもらいたいと思う。しかも、勝ち負けは受験だの単純なものではなっている。受験だけならば早々に勝負を降りてしまう生き方も考えられるのに、多種多様な子どもを「開発」するツールやメソッドがあふれかえり、そう簡単に負けさせてくれない。多様化と言えば聞こえはいいが、生き方自体の多様化ではなく、勝ち抜くための手段の多様化なのである。
 こんな時代に子どもを育てるプレッシャーはとてつもなく大きい。なにがどうなっても、それなりに生きていける世の中ならば、子どもが死なないように助けてやれば親の務めは果たしていると言える。子どもが育っていこうとするのを、支えてやればいい。ワガママな子はワガママなりに、気の弱い子は気の弱いなりに、それなりに育っていく。少しは軌道修正も必要だろうけれど、親がどうのこうの言ったからといって急に聖人君子になりはしない。
 ところが、道を踏み外したら生きていけないような社会では、そんな悠長なことを言ってられない。鳥の親が飛び方を教えるように、厳しくしつけてあるべき形に育てる必要がある。それを達成できない子どもは見捨てられる。飛べないなら飛べなくてもいいんじゃないの なんてことは絶対に言ってくれない。だから、親に「子どもはこう育てなくてはならない」というプレッシャーをあたえれば、必然的に幼児虐待はおきる。ライオンが子どもを谷に突き落とすなんていうのは、立派な虐待じゃないの? 餌をとって身を守る、あるいは集団生活に適応するという点では、動物はきわめて厳しいスパルタ教育をするし、それで命を落とす子どもも数知れずいるはずだ。
 もちろん、それと同じことをしていいと言うのではない。ではないが、そういう心のシステムが働いているのではないかと思ってしまう。子どもが「あるべき」からはずれていると、ムカムカっとくる衝動がわき起こってくる。それを押さえられるか押さえられないかが、虐待になるかならないかの分かれ目であって、心の中では同じなのではないか。
 幼児虐待の件数は、表沙汰になっているだけで3万5千件とかいわれている。0~4歳の子どもの人口が540万人程度だから、表沙汰でない件も多いことを考えると、子どもの100人にひとりは虐待されているということだろうか。う~ん 言葉もない。イライラの度が過ぎる程度のものから死なせてしまうものまで事情は千差万別だから、ひとくくりにコメントはできないのはわかる。が、この数字を見ると、やはりさっきの仮説が正しいのではないかと思ってしまう。
 
 熊本県の慈恵病院には「こうのとりのゆりかご」という小さな窓口がある。俗に赤ちゃんポストと呼ばれている。親が自分で育てられない赤ちゃんを預ける場所。これは大きな反響をよんで議論百出した。それから2年間で、42人の子どもが預けられたという。どんな事情で預けたのかはわからないが、とりあえず42人の命が救われたことは良かったと思う。いや、本当に良かったかどうかは42人の彼ら彼女らが後日自分たちで判断することだけれども、少なくとも、判断する機会だけは奪われなかった。
 ここへ子どもを置いていった親たちは、おそらくお釈迦さんの言葉に従ったわけではないと思うが、仏教では親が我が子を思う気持ちを「執着」としている。シュウジャクと点々をつけて読む。要は、人間の心の中にある不幸の元だ。子煩悩なんていうと、子どもをかわいがる優しい親父のことみたいだけれども、本当は全然違う。我が子をかわいいと思ってしまうことが、不幸の始まりだというのだ。
 それならば、過保護すぎてかえって子どもを不幸にしてしまう親のことを言っているのだ、と思うと必ずしもそうでもない。もとより私はお坊さんではないので出過ぎた解説はご容赦いただきたいが、敢えて言うと、我が子だけ、自分の子だけは、この「だけ」が不幸のもとのようだ。別の言い方をすると、自分「の」子どもという考え方、もっと言うと、子どもが自分の所有物だという感覚。それは、自分だけは大事にしてほしいという思いの裏返しでもある。
 そう思うと、慈恵病院に子どもを預けていった親は、自分の執着よりも子どもの命を優先したということなのかもしれない。そして、そこにかすかなヒントが潜んでいるような気がする。子どもは子どもなんだ、自分とは別の生き物なんだ、という一種のあきらめを、あらかじめしておくこと。自分は子育てなんて上手くできるわけがない、とあらかじめ観念しておくこと。
 夜回り先生・水谷修さんも、親は子育ての素人だと喝破している。考えてみたらアタリマエのこと。生まれて初めてか、せいぜい2回か3回しかやらないことなのだから、素人に決まっている。死なない程度に助けることは、もしかしたら脳みそにプログラムされているかもしれないけれども、それ以上の複雑怪奇な現代社会での子育ては、まるっきりの素人。さすが、するどいなあと感心した。ま、そういう体験をイヤというほどしてきたから言えるのだろうが、私たちも実は結構体験してきているハズなのだ。体験しているけれども、それを率直に素人ですと言えなくて、なんとかしようナントカしようともがいて苦しんで、それが虐待になっている。たぶん、そういうことではないのだろうか。
 
 話は、子ども部屋に戻る。子ども部屋をどうするか、というのは家のプランを作るときにいつも問題になる。6畳の子ども部屋を人数分、というのが70年代後半からのスタンダードだ。そして、その子ども部屋は玄関から入ってすぐの階段につながっていて、親の顔を見なくても家を出入りできるようになっている。
 これこそが、子どもの非行の原因だ! という大騒ぎがいつから始まったのか。時期は定かではないが、「家をつくって子を失う」という本が1998年に出版されたのが大きなエポックになったと思われる。また「子供をゆがませる「間取り」」が2001年に出版され、オタク系の犯罪は家の間取りのせいだということになってきた。
 今では、10人中9.5人くらいは大きな子供部屋はいらないという。ベッドと着替えだけは個室にして、勉強は共有スペースでというようなことを言われるケースが非常に多い。非常に多いのだが、実際はどうなるかというと、すったもんだしたあげくに、ほとんどの場合そこそこの子ども部屋ができあがる。建前と本音は別なのだ。非難しているのではなくて、そういうもんだということを知ってほしいから書いている。
 どっちかというと非難したいのは、極めて限られたデータで「間取りが非行を生む」と決めつけた大先生たちのほうだ。先ほどの「子供をゆがませる「間取り」」の内容紹介にはこう書いてある。
<新潟少女監禁事件、酒鬼薔薇事件、金属バット両親殺害事件…。凶悪事件の病巣は、彼らが育った家の「間取り」にあった!>
 ホントかよ。たったこれだけの「症例」でああだこうだ言えるモンなのか? そんな疑問も感じつつ、大事なことを見落としていませんか?という思いが強くなる。子ども部屋が問題なんじゃなくて、子ども部屋に何をさせようとしたのかが問題なんじゃないの?
 子ども部屋には、親の執着、その執着を生み出した社会の構造、その構造を生み出した利権と欲望、そんなものが込められている。呪いの部屋みたいなそんな場所に閉じ込められたら、子どもだってそりゃ影響がでるだろう。問題は、部屋のあるなしや大きさではない。どんな気持ちでそれを作るのか、あるいは作らないのか だ。
 
 
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  最初からずっと「子どもを守れ」と言い続けている。で、子どもの何を守るんだろう、と自問自答してみた。もちろん命も守らなくちゃならないし、命までいかなくても健康も守らなくちゃならないし、健康にも体の健康も心の健康もあるわけだし、今だけでなくて将来も守らなくちゃならないし、将来にだって将来の社会や経済という意味もあれば環境という意味もある。考えていけばもっとあるだろう。こんな何でもかんでもを「木の家」で守るなんて無謀な話だし、夜郎自大、大法螺吹きの類になってしまう。
 つきつめればやはり、心を守るってことなのだと思う。そう言いつつ、最近は「こころ」という言葉をすごく使いにくくなったとも思う。何でもかんでも「こころ」の問題、「こころ」のせいにして、「こころ」さえナントカすればすべて解決するかのような主義主張がまかり通っているからだ。
 その代表選手が文部科学省のやってる「心の教育」「心のノート」だろう。小学校低学年、中学年、高学年、中学生と4種類の心のノートっていうのがあって、それぞれに「これがいい子ちゃんですよ」という道徳を書いてある。まあ、書いてあること自体はそんなに無茶苦茶なことではない。子どもがみんなこんないい子ちゃんだったら気持ち悪いなとは感じるけれど。「思いやる心」とか「地球に生まれたことの意味」とか「人類の平和と幸福」なんて言葉が並んでいる。
 ただ、どうしても余計なお世話っていう気がする。というか、こんなものを読んで「うん、そうだなあ」なんて心から納得する子どもがいるんだろうか? 少しはいるかもしれないけど、ほとんどはいい子になるための通過儀礼として覚え込んでいるか、しらけた目で見ているか、ではないだろうか。いずれにしても、きれいごとに過ぎないことは肌身で感じているはずだ。なぜなら、ほとんどの大人がそんないい子ちゃんな生き方も考え方もしていないからだ。子どもの目はしっかりと見ている。
 思いやる心なんてかなぐり捨て、地球に生まれたことの意味なんて1年に30秒くらいしか考えることなく、人類の平和と幸福に至っては本気で考えたら会社をクビになったり最悪は逮捕されたりする、そんな大人の姿を目にしながら、「心のノート」を読む子どもたちは何を感じるだろうか。それはたぶん、戦略としてのいい子ちゃん、生き抜く知恵としてのいい子ちゃんだ。もっとありていに言えば、本音と建て前、裏と表の使い分けを覚えていく。そういう使い分けをできるようになった子どもは、心に大きな負担を抱えながら社会に適合して生き抜いていく。限界に達するまでは。
 使い分けのできない子どもは、最初から規格外として選別されていく。それは、きれい事を本気で信じてしまった場合でも、きれい事なんてバカじゃないのとホリエモンのような生き方をした場合でも。
 
 ちょっと余談になるが、教育や子育ての本のコーナーには「キレる子ども」とか「学級崩壊」とか「いい子が危ない」とかの言葉が氾濫している。そして、その多くがそうした子どもの心の中をほじくり回してあれこれ解説している。たまに、毛色が変わっていると思ったら「イジメは犯罪だから告訴せよ」みたいなことが書いてある。
 こうした本の著書も、結局同じ精神構造なのだ、たぶん。戦略としてのきれい事を身につけた評論家は、子どもの心を解説し教師や親の心を解説してご自分の道徳心を天下に表明している。逆に、きれい事なんてバカらしいという論者は「イジメは逮捕しろ、告訴しろ」と叫んで世間の耳目を集める。すべての子どもたちがこういう評論家と同じくらいしたたかで器用ならばいいのだけれど。いや、よくはないか。すべての子どもがこんなだったら、世の中はいよいよ修羅場だ。
 とにかく、子どもはもっと不器用に無理を重ねていい子ちゃんになるか、綺麗でない現実とぶつかるか、さもなければきれい事と喧嘩しながら野獣の生き方をしなくてはならない。それ以外の選択肢はない。どこを探しても。こうなると、親としてできることなんてホントにたかがしれている。せいぜい、いい子ちゃんになりすぎないように気をつけてやるくらいしかない。勉強しすぎないように、本音のワガママを口に出せるように。いいこちゃんの規格から外れたときに「いいんだよ」と言ってやる、「いいんだな」と感じる余裕をもたせてやる。そんな、スキマのようなことしかしてやれない。ゴメン。
 
 「心の教育」と必ずセットになっているセリフが「何でも世の中のせいにするな」だ。たしかに、世の中のせいにしても始まらないということは多い。毎日の現実を生きている以上は、世の中が悪いといっても飯は食えない。四の五の言っている間に飯の種を見つける方が先決だ。それに、そうしてナントカなるうちは、一歩でも前に進んでいる方が気分もいい。私自身も、1990年から2005年までの15年間はそう思って、ひたすら働いて生きていた。
 でも、やっぱりなんか変だと思ったのが2005年9月11日の選挙だった。あの小泉劇場といわれた郵政選挙。これはエライことになるという予感にゾゾッとなった。人類が始まって以来良い世の中なんてなかったのだから、少々ガマンして生きなくてはならいのはこれは仕方ないかもしれない。でも、ガマンには限度がある。それを超えるようなことになると、きっとワケの分からないことがいろいろおきてくる。やばいなあ。と思った。
 人間の体でも交感神経と副交感神経とか、ホルモンとか、いろんな拮抗するものがバランスを保って生きている。外敵から身を守る免疫だって、強すぎるとアレルギーになるし弱すぎたらエイズみたいにちょとした風邪で死んでしまう。(医学は専門じゃないので適当な言い方です。あしからず。)
 政治の世界も、あまりにもひとつの勢力が強すぎるとロクなことにならない。あーだこーだ良いながら喧嘩しつつもナントカ生きていけるというのがいいんだけれども、小泉劇場はそんな均衡をぶち破ってしまった。
 その前兆も感じてはいた。郵政選挙の前年、2004年4月におきたイラクでの人質事件だ。人質事件というより、自己責任事件といった方が日本では覚えている人が多いかもしれない。ジコセキニンの大合唱がくり返しくり返し報道されたことは覚えていても、その元になった事件は風化しているんじゃないだろうかと、ちょっと心配だ。
 2004年4月7日に、イラクのファルージャで3人の日本人ボランティアが武装グループに拉致され、犯人グループは自衛隊のイラクからの撤退を要求した。これに対し、捕まったのは「自己責任」だ(だから自衛隊の撤退はするな)という、ジコセキニンの大合唱がまきおこったのだった。そんな風に記憶している。
 このときは、本当に心が寒くて寒くて、この国の人たちはどうなっちゃったんだろうと思った。家すらないストリートチルドレンの支援したり、放射能をまき散らす劣化ウラン弾のことを調べたりしていた日本人ボランティアに、なんで言葉を極めて憎しみを投げつけるんだろう。だいたい、ジコセキニンを合唱している人たちこそ、どれほどの責任をもってその言葉を発しているのか。もしそれは間違いだったと分かったら、どうやってジコセキニンをとるつもりなのだろう。おそらく、テレビで顔をさらしてしゃべっている人ですら、ちょっと時間がたてばしらっと忘れて責任なんてとるつもりは、さらさら無いんだろう。
 「世の中のせいにするな」という御説をたまわると、どうしてもこういうことが頭の中を去来する。あのジコセキニンという大合唱が、地鳴りのように聞こえてくる。
 
 しかし、あれから何年もたって考えてみると、自己責任という言葉自体に矛盾があることに気がつく。簡単に言えば、馬から落ちて落馬して、の類だ。責任というものは、当然というか自動的にというか、自分にくっついているものだ。私に責任があるとは言うけれども、私に自己責任があるとは言わない。彼に責任があるとは言うけれども、彼に自己責任があるとは言わない。そもそも、責任というのは自己責任以外ではあり得ないからだ。
 なのに、あの事件以来、普通の日本語の中でも自己責任という言葉がよく使われるようになった。地域の運動会の呼びかけでも、「事故やケガについては自己責任でお願いします」なんて調子で。もう不自然とも感じないくらいよく見かける。じゃあ、以前はどのように書いてあったのかと思い起こしてみると、たぶん「事故やケガについては(主催者は)責任を負いかねます」ではないだろうか。町内会は参加者のケガには責任追いません、という言い方だったハズだ。同じことを言おうとするとそうなる。
 この言い方だと何が違うのかというと、主催者の責任範囲が明確だ。主語が主催者だから。町内会は、ここまでは責任とりませんよ、と宣言することになる。当然、それはちょっと冷たいんじゃないの とか ちゃんと保険に入って責任持つべきだよ という異論も出てくる。
 ところが、自己責任でお願いします というと、運動会の主催者である町内会の責任範囲は語られていない。参加者の責任を問うているだけで、「責任感のある子どもになれ」と教育されてきた圧倒的多数の人たちは、そりゃそうだ と妙に納得してしまう。
 つまり、自己責任という言葉は、主催者側が「責任をとりません」と宣言せずに責任をとらないための言い回し、新造語なのである。ややこしくて恐縮だけれども、「責任をとらない」と決めるのもある意味の責任だ。たとえば責任とらないと決めたことに対して、あとから「法的に責任があるよ」と言われたら、決定した人は無責任の責任をとらされる。
 ところが、自己責任でお願いします と言えば、主催者は責任があるのか無いのか、何も言わなくていい。主催者側は、誰も何も責任をとる必要がない。本格派の無責任だ。
 
 心の教育やらの「いい子ちゃん」押しつけ教育と、「自己責任」という究極の無責任とは表裏一体だ。そりゃそうだ。責任を持って「いい子ちゃん」になれなんて、誰も言えない。言った自分にはね返ってくるからだ。自分はどうやねん!! と言われて、ふんぞり返ってみせる下卑た大人はいるかもしれないが、だいたい道徳を得々と説くオッサンほど、陰では色んなことをしている。ソンナノカンケイネー(古!)、いい子ちゃんになるのは自己責任だ と言わなくては道徳教育なんて成り立たない。文部科学大臣から現場の教師に至るまで、いったい道徳に責任をとれる人間なんて何人いるのか。というか、そんな人間が地球上に存在するのか??
 子どもたちは、だれも責任をもってくれない「いい子」を押しつけられて、いい子になれなかったら、あるいは ならなかったら、自己責任で冷や飯を食わされ果ては処罰される。これが、今の子どもたちの立ち位置だろう。
 油断という言葉は、王様が臣下に油の入った容器をもたせ、一滴でもこぼしたら命を断つ と言ったのが始まりだとか。今の子どもは、まさにこの臣下のようにギリギリの緊張を強いられながら生きている。ほとんどの子どもは、そこまで自覚はしていないだろうけれども、学校の廊下を行き交う子どもたちの頭の上には、見えない油の壺が乗っている。
 そんな子どもの緊張感をゆるめるには、いい加減な見本を見せてやるのがいい。クレヨンしんちゃんもやや当初の勢いを失いつつある昨今、いい加減の見本ていうのは実はなかなか見つからない。もちろん、何でもカンでもいい加減にすればいいと言うものでもない。親や教師がやたらといい加減では、子どもはますます捨て置かれてしまう。ただ、あるがままで子どもとつきあうこと、あるがままの子どもを受け入れること、そんな関係がちょっとでもつくれたらいいなあ と思うのだ。
 で、話は4章の「ちゃんと"していない"木」につながる。4章でも書いたとおり、木というのは全然ちゃんとしていない。いい加減の見本としてはこれ以上のものはない。勝手に伸びたり縮んだりするし、模様だってこの世に二つ同じものはない。
 ところが、木をちゃんとさせたい建築業界は木に道徳を押しつけた。まっすぐであれ、縮んではいけない、木目はすっきりと・・・。そして、木の中の「いい子」の部分だけを貼り合わせて集成材というものをつくり出した。たしかに建築である以上、強度を確保しなくてはならないし、けつまずいたり指を挟んでケガしたりするのは困る。人間の場合とまったく同じメンタリティーで木を扱うつもりは、私にもない。けど、それでもなお集成材みたいな道徳的な木はあまり使いたくないと思う。できるだけあるがままの木を使いたい。できれば節も木目もそのままの木を使いたい。
 そういう木で包まれた空間は、ほんのちょっとかもしれないけれど、子どもの「油断しちゃいけない」という緊張を和らげることができる。暗い部屋でひとり、木の壁にほっぺたをくっつけると、「ああ拒絶されていないんだ」という感覚を味わうことができる。なんだか根拠はないのに
「大丈夫」という気がしてくる。そういう芯のあるいい加減さを、木はもっている。
 油の壺をもって生きている子どもたちを解放してやれるわけではないが、いい加減さをお互いに受け入れる時間と空間があることは、きっと大きな助けになるだろう。
 
 
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