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Hello 山岸飛鳥 さん     
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プロフィール
HN:
山岸飛鳥
HP:
性別:
男性
職業:
木の家プロデュース
趣味:
きこり
自己紹介:
木の家プロデュース明月社主宰
木の力で子どもたちを守りたい
田作の歯ぎしりかもしれないけど
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  火事編その1では、家の中の火事について書いたので、今度はトナリの火事が燃え移らないようにすること。または、こっちの火事がトナリに燃え移らないようにすること、について。
 
 消防白書(平成20年)によれば、火災で亡くなる方は1日に5.5人、年に2005人もいる。そのうち575人は自分で火をつけて自殺してしまった人だという。20代から50代に限ってみれば約半分くらいを放火自殺が占めている。割合で多いのはやはり高齢者で、65才以上の方が814人で6割近い。15才以下の子どもも78人が犠牲になっていて、火事の怖さが実感できる。
 けれどもこれは、子どもの命を奪う最大の原因ではないことにも注意。こんどは厚生労働省の資料を見てみると、(こっちは15歳以下ではなく14歳以下だったりカウントの仕方がちがうので数字が一致しないけれども)死亡原因で一番多いのは出産時の問題や先天性の病気。次が転落や溺死などの火事以外の家庭内での事故が197人。ほぼ同じくらいで交通事故が191人。ちょっと離れて火事が56人。なんと自殺が47人(19歳以下になると500人以上)。
 家と車というファミリーの象徴が子どもの命を奪う原因になっているというのは、皮肉というか悲しい話なのだが、こういう資料を見ておくと何に気をつけたらいいのかよくわかるので、見ているだけで気分が落ち込んでくるけれども、やはり目は通しておきたい。詳しいデータは、厚生労働省のホームページに「人口動態統計 年報」というカタックルシイ統計があり、その中の「家庭内における主な不慮の事故の種類別にみた年齢別死亡数・構成割合」という長ったらしい名前で掲載されている。
 
 では、元に戻って、トナリの火事。
 要するに、外壁と屋根と窓をどうするか、という話しになる。それさえしっかりしていれば、トナリが燃えてもこっちは平気だ。逆に、こっちが焼けても中だけで済む。よくある住宅地の家ならば、30分持ちこたえるというのが基準になっている。おっと、また30分が出てきた。前の章でも「30分」というのが何度も出てきたのを憶えていたら優等生だ。さてさて、なんで30分なんだろう。
 これは、割と単純で30分以内には消防車が来ることになっているからだ。さっきも見た消防白書によると、放水が必要なくらいの大きな火事の場合、97%が通報から20分以内に放水が始まって、43%が30分以内には火を消してくれる。というわけで、1年間に1万5千回以上も放水車から盛大に水を放っているのだから、消防士さんも大変だ。
 などと感謝しつつ、でも火事にならないのが一番だから、どうやったらトナリの火事をもらい火しないかということと、ウチの火事をトナリへうつさないかということを考えてみよう。まずは、トナリ→ウチの場合。
 もらい火で一番危険なのは屋根。火の粉が飛んできて、少し離れていても燃え移る可能性がある。 日本昔話のような茅葺き屋根だったら、屋根の上からたき火が始まってしまう。しょちゅう大火事がおきていた江戸の街では、ほとんどの家の屋根は板だった。木の板。今どきの常識だと板の屋根なんて犬小屋かと思うけれども、ちょと昔は普通のことだったらしい。飛鳥板葺宮という7世紀の皇居がある。かの有名な蘇我入鹿が暗殺された場所だ。このへんが日本での板葺の屋根の流行の発端のようだ。平安時代以降は、より高級なこけら葺というものに進化して国宝級の建物もこれで造られた。修学旅行でおなじみ、京都の金閣や銀閣もこのこけら葺。こけらという字は柿にそっくりなのだが、点の打ち方が微妙に違うというへんてこな字、なんて言う話はここでは関係ないからおいといて、要するに板葺というのは高級低級に関わらず、犬小屋じゃなくて多くの建物に使われていたということ。もちろん、高級建物な板葺はこけら葺のような高級な板葺で、庶民の家はタダの板を並べただけの板葺だったはずだ。
 ところが、江戸のように世界有数の大都市になってしまうと、とにかく良く燃える。前の章でも少しでてきたが、3年に1回は大火事がおきていたというからスゴイ。さっさと瓦屋根にしてしまえば少しはマシだったのだろうに、殿は庶民が贅沢をするのが大嫌いだったから、長いこと瓦屋根を禁止していた。その「功績」もあって、1657年の明暦の大火では10万人以上の人が犠牲になったともいわれる。それから60年を過ぎたころの享保の改革で、やっとこさ「屋根は瓦にしろ」ということになったらしい。言ったのは、かの有名な大岡越前守だとか。
 それでも、瓦は高価だし一気に普及することもなく、50年ほど後の1772年には目黒行人坂の大火がおきてしまう。ただしこの頃になると江戸市民は火事慣れしていたこともあって、死者は1万5千人くらいだったらしい。120年間で、犠牲者を一桁減らすことに成功している。この火事は放火事件で、犯人を捕まえたのは鬼平犯科帳の火付盗賊改役・長谷川平蔵の先代だった。
 さらに30年ほどして、1806年に丙寅の大火というのがおきるが、このときの死者は1200人ほどで、これまた一桁減らしている。燃えるのは同じように燃えているのだが、逃げ方が上手くなったのと、燃え広がるスピードが変わったのだと思われる。都市計画の問題とか、いろんな原因が考えられるけれども、瓦屋根が徐々に増えたというのも要因の一つだったのではないだろうか。
 今では、瓦の他にも燃えにくい屋根材料はいろいろあって、不燃材料とか飛び火試験とかの認定をとっているものを使うことで、降りかかる火の粉を払うようにしている。
 
 しかし、屋根だけ対策しても燃えることは燃える。よく燃える。だって、江戸時代の建物は壁のほとんどが窓で、その窓は紙でできている。これが燃えない方がおかしい。燃え広がりにくくする、燃え広がる速度を遅くする、逃げやすくするという政策はあっても、燃えないようにするという発想は江戸時代には見あたらない。当時の建築でも蔵という防火の建築はあったのだけれども、そんなものに住むというのは論外だったわけだ。
 それが、決定的な発想の転換になるのが関東大震災。なにもかも焼け尽くされた後に、数少ない耐火建築の残骸が残っていたものだから、やはり耐火はスゴイ、コンクリートは燃えないぞ、ということになった。ということで、1920年代の東京復興は耐火建築が主役になる。つまり、屋根だけじゃなくて壁も燃えないし、窓は小さくて紙じゃなくてガラスが入っている。このことは、結果として高層建築を生みだしかえって多くの犠牲者を出す結果にもなったのは前に書いたとおり。けれども、同じ規模の建築で比べれば、江戸時代からの紙でできている家よりも火事に強いのはアタリマエ。
 こうした耐火建築のまねをしたものが木造モルタルというやつで、これまでは柱の間に土壁を塗っておしまいだったのに、その外側にモルタルを塗るようになった。たしかに、何もしないよりは燃えにくい。とくに、中身が土壁だったらなかなかのものだが、最近では土壁を使わないので、モルタルを2センチ以上塗りなさいということになっている。このモルタル壁は見た目がきれいなのと何十年かはメンテナンスフリーなので私はよく使のだけれど、最近はあまり見かけなくなった。代わりに世の中を席巻しているのはサイディングという既製品のボードで、これも防火認定品は30分は燃え移らないということになっている。
 
 こうして関東大震災以降、壁も燃えにくい建物が増えてきた。窓も、江戸時代のような紙ではなくてガラスになった。しかし、いくら紙からガラスになっても、窓が弱点になることは変わりない。そこで、特にリスクの高いところでは防火戸というものにしなさい、ということになった。ガラスに金網が入っているものを見たことがあるだろうか。あれは、泥棒対策じゃなくて防火のために入っているというのは案外知られていない。火事の熱でガラスがパリンといっても、炎がメラメラと入り込むような大穴が開かないようになっているのだ。(泥棒さんにはガラスが飛び散らないのでかえって好都合らしい。)
 郊外の住宅地ではここまで求められることはあまりないが、大阪市内とか都市部では住宅地でも窓は防火戸にしなくてはならない地域もある。正確に言うと、準防火地域というところでは非常に規制がきつくなるので、注意が必要。特に、3階建てになるとモウレツにきつい。
 準防火地域でないほとんどの場所は、法22条地域といって、一般の住宅の場合は屋根と外壁だけが規制される。さらに、田舎に行くと22条地域ですらなくなって何も規制のない場合もある。ここまで行くと建築確認申請すらいらないこともあったりするのだけれど、これはレアケース。
 逆に、駅前のような場所だと防火地域というのもあって、ここは3階建て以上か100㎡(約30坪)以上の建物は耐火建築物にしなくちゃならない。なので、木造住宅はほぼ無理。いや、実は木造でも耐火建築を作る方法が最近になって開発されているのでできないことはないんだけれども、少なくとも木の構造が目に見えるような木の家は無理。というわけで、ここでは、法22条地域と準防火地域について書いている。
 ウチって何地域なの? と疑問に思ったら、市役所に電話して聞けば教えてくれる。気の利いた市町村ならばインターネットで公開しているところもある。もし今住んでいるが防火地域だったら、もし今の家が木造だったとしても、次に建て直すときは2階建て以下で30坪以下で、なおかつ規制の厳しい木造にするか、耐火建築にするかしかない。どうしても木の家にしたいときは、奥の手で売っちゃうという選択肢もある。防火地域はだいたい繁華街で土地の値段が高いから、売り払って少し郊外に引っ越せば、土地と建物の代金を払ってもおつりが来るかもしれない。
 
 話があっちこっち行ってしまったので、準防火地域の話にもどそう。家を建てようと思った場所が準防火地域だったら、さっき言ったように窓は網入りになる。(ちょっと高価な網無し防火もある) 窓以外の場所はどうなるかというと、これは2階建てと3階建てで大違い。2階建ての場合は色々あるけれども、法22条とそれほど大きくは変わらない。そうそう、軒裏(外から見える屋根の裏側)に木は使えない、というのは違うところか。
 準防火地域の場合は、都心部に近くて3階建てになる可能性が高いから、3階建てのことを書いておこう。これは結構きついしややこしいので。
 準防火地域で木造の3階建てを建てるには、法律の上では三つのルートがある。私たちの用語では、イ準耐と省令準耐とロー1準耐という。コリャなんだろう。やっぱり、ややこしそうだ。
 イ準耐というのは、家の外側は法22条とそれほど変わらないのだけれど、家の中の木の部分を徹底的にカバーをしなさい、というもの。床板と腰壁以外は木を見せることはできない。これだと、木造でも何造でもあまり違いがわからなくって、木の家にはなりにくい。大阪市内なんかで見かける3階建ての木造はほとんどこれ。
 省令準耐というのは、家の中は規制を受けない代わりに、外壁や窓を厳しくしたもの。特に、窓がきつい。あまりにもややこしいので簡単にしておくけれども、お隣との敷地境界から1m以内は小さい小さい窓しか開かない窓しか作れない。1m以上離せばちょっと大きめの窓を作れるけれども、、窓の大きさの合計が壁の大きさの何%までという総量規制があって、とにかく窓が作りにくい。もともと広い敷地じゃないから3階建てにするのだから、お隣から1mも離して窓を作るってこと自体に無理がある。そんなわけで、内部は木の家を満喫できるけれども、窓の小さいうっとうしい家になりやすい。
 最後に、ロー1準耐だ。専門の人がこれを読んでいるとしたら、エッと思うかもしれない。実は、ロー1準耐といのは、法律上は存在するけれども実際に建てられることはまずない という代物だからだ。どういうモノかというと、外壁は耐火、屋根は準耐火、窓は防火にすることで、内装も窓の大きさも規制しないというもの。これなら、好きな方にプランできるのだが、なにせ木造で耐火の外壁というのが無理だった、これまでは。ところが、数年前に木造の骨組みの外側に特殊なモルタルを塗ってコンクリート並みの耐火構造にするというスグレモノが開発された。
 おお、これでロー1が木造でできるじゃないかと喜んだ私は、さっそくそれで家を設計した。ところが、確認申請を審査機関に持って行っても「???」てな感じで、門前払い。話も聞いてくれない。それではと、建築基準法を決めている国に聞いてみようと、外郭団体である日本住宅木材技術センターに電話してみたが、「ロー1は実際に建てられたことなんてないんじゃないですか。」というお返事。同センターのホームページにはロー1の図解もあるのに、「何となく書いてみたけれども実際にどうやって作るのかは分からない」という頼りになる回答だったのである。
 そもそもこの耐火壁を開発した会社も、開発したものの使い方は考えていないし、八方ふさがりになってしまった。ところが捨てる神あれば拾う神ありで、2軒目に訪ねた審査機関が相談に乗ってくれた。そこで、ここはこうしようとか、その部分はこう処理しますとか、何ヶ月もかけて考えては相談に通って、ようやくOKをとった。だから、私の建てているロー1準体の木造3階建ては日本初ではないだろうかと、密かに思っている。
 とにもかくにも、この道が開けたので、準防火地域でも木の家は可能になった。
 
 と、こんなうようなことを考えながら、火事が燃え広がらないような家を作らなくてはならい。結構面倒だし、予算もかかるし、制限もされる。でも、最初のほうに書いたように火事で死ぬ人は少なくない。だから、これは構造強度同じでちゃんと考えて作りたい。
 それと、外壁や屋根の耐火性には断熱材も影響するんだけれども、断熱は大きなテーマなのでそっちの章でまとめて話をしようと思う。
 


 
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  どちらかというと学校のことに話題が集中してきたので、そろそろ家、住まいのことに話を戻そうか。子どもを守るための木の家をどうやって手に入れるのか。
 
 その前に、最近の家庭菜園ブームについて。何年か前まではガーデニングの雑誌が並んでいたところに、今は家庭菜園が陣取っている。家の雑誌なんて片隅に追いやられて、書店の一番いいとこにずらっと。もっと驚いたのは、家庭用トラクターのコマーシャルをテレビのゴールデンタイムでやっていること。知ってる人も多いだろうけれど、某バイクメーカーがカセットコンロのガスボンベで動く耕耘機を作った。けっこうカワイイ。それ以外にも、肩にひょいとかけて使える耕耘機なんかも2,3万円で販売されている。
 そんな情報に驚いた数日後、近くのショッピングセンターに行くと、新しい店ができていて、店頭になんと耕耘機がおいてある。シーンズショップ、靴屋、HMVのCDショップの隣に耕耘機が並んでいる光景はなかなかシュールだ。看板をよく見れば、ヤン坊マー坊のあの会社が展開する家庭菜園ショップである。花屋の片隅で種を売っていた野菜たちが、一気に主役に躍り出た感がある。いったい誰が仕掛けたのか、ヤン坊マー坊に聞いてみないと分からないけれど、たぶん自然発生的なものではないだろうか。前の章でもちょっとふれた食育なんていうのも関係しているとしても、そんな地味なもので大流行は生まれないだろう。都市住民の心の中に「野菜を育てたい」という切実な思いがムクムクと湧き起こってきたということだ。これはスゴイなあ と思った。
 私が30の手習いで建築の学校に通い始めて、最初に作った課題設計は畑付きの図書館だった。ちなみに卒業設計は銭湯付きの美術館だったのだが、まあそれは置いといて、都市機能に畑が必要だという思いはずっと感じてきた。もっと昔を振り返れば、中学2年までは庭には必ず畑があった。母親が畑好きで、庭というものは野菜が植わっているものだと思っていた。取れたてのトマトやトウモロコシの味は、子ども心にもうまいなあと思った。そんな原風景もあって、畑のある家というのはごく当然のものだと思ってきた。
 これまで何軒か畑のある家も設計した。25坪の敷地に5坪の畑があると、ひとり暮らしのオジイチャンにはちょうどいい広さの畑になる。住み始めて1年後に訪ねたときに、ますます元気になっている様子を拝見してホントにうれしかった。しかし、現実は厳しい。30坪程度に割られた敷地に、4人家族くらいの建物と駐車場をとると、ちょうど一杯になるようにできている。もちろんその気になれば、ゴーヤの一本くらいはスキマにでも植えられるけれど、畑という姿はなかなか作れない。子育て真っ最中の若いファミリーが手に入れられる家に畑を確保するというのは、結構難しいのだ。
 そうなると、今度はあこがれの「田舎暮らし」となる。これまたコの手の雑誌はいっぱいある。田舎不動産物件の広告がメインで、その間にバラ色の田舎暮らしのグラビアや取材記事がならんでいる。何を隠そう、私もときどき立ち読みしてはため息をついている。疲れているときほど、深い深いため息がでる。半分本気で土地を見に行ったこともある。けど、踏み切れないのは仕事があるからだ。
 私の場合は、自分の仕事は少々田舎でもできるけれども、カミさんの職場に通えるというのは絶対条件だ。ぶつぶつ文句言いながらも仕事に誇りをもっているようだし、なにより頼りないダンナの稼ぎだけでは一家の財政が心許ない。これは、夫婦のどちらの仕事であれ、ほとんどの家庭に共通していることにちがいない。いくら田舎暮らしにため息が出ようとも、仕事を辞めて引っ越すわけにはいかない。
 それでも、私はあきらめきれずに、子どもたちが大きくなってしまう前に畑のある家に住みたいなあと考え続けてきた。ウチだけでなく、多くの子どもたちが、そういう環境で育つことができたらいいのに。種をまいて、育って、もぎ取って、食う。これを日常的にアタリマエのようにできる子どもは本当に幸せだ。手伝わされてツライと思うかもしれないが、でも絶対に命の体験は残る。血となり肉となる。
 今は保育園や小学校でもやってるじゃないかという人もいるだろう。そう、ほとんどのところでやっているし、それは良いことだと思う。下の子の保育園では、芋掘りが年中行事だし、お姉ちゃんの通っている小学校では、5年生になったら田んぼでお米を作るらしい。でも、これは特別な行事ごと。もし学校でするのならば、1時間目はずっと畑の時間にしてしまうくらいの、日常的な普通の光景になってこそ、子どもの原風景になるのだと思う。
 そうなると、やっぱり家に畑が欲しい。無理なローンを組まずに、坪20ン万円とかの悲しい家じゃなくて、畑を確保することができまいか。なにせ、自分でもそんな家に住みたいと思っているから、しつこくシツコク考えてきた。で、これならできるかも、という答えが見つかった。
 
 なにぶん、この世の中は資本主義なのだから人気があって需要が多いものは値段が高い。じゃあ、人気がなくて需要が少なくて供給は結構あるものを使えばいいんじゃないか、そう考えた。
そのひとつは、山の木だ。これまで縷々述べてきたように、日本の山には木があり余っている。流通の問題があって、必ずしも安くはないけれども、高くもない。輸入材よりも国産の木は高いようにいわれることが多いけれども、それはウソ。いま、家を建てる木で一番安いのは、国産の杉の木だ。まして、間伐して捨てられている木をうまく使うことができれば、少々安い値段でも山を管理する人たちにはいくらかの利益になる。
 もう一つ、うち捨てられているものがある。それは、郊外のニュータウンだ。大阪近郊の場合だと、都心から1時間程度の場所でも、ビックリするくらいサビれている。造成されてから40年近い「ニュー」タウンは、住人の平均年齢も70才を越えつつあり、空き家も非常に多い。大阪梅田から23分の千里中央の周辺に、日本で最初の大規模ニュータウンといわれる千里ニュータウンが広がっている。ここはさすがに今でも値段が高く、土地の値段が坪80万から100万くらいしている。敷地面積が100坪くらいあるから、まず普通の人には買えない。この千里ニュータウンですら、空き家がすごく多い。実は数年前にある地区を全戸調査したことがある。(このときの数字は今手元にないので、確認してからここに追記します。)
 ましてや、もっと交通の便が悪いニュータウンは推して知るべし。空き家どころか、街開きしてから何十年も家が建てられなかった土地がゴロゴロしている。土地の値段も坪10万とか7万とかいう状態だ。まだなんとか住めそうな家と50坪くらいの土地で、1000万出したらおつりが来る。千里ニュータウンのなんと10分の1。
そのままではいくら何でも住みたくないけれど、庭の土を入れ替えて、構造の補強をして、木の内装を施して、ついでに畑作業に便利なように土間を作ったりして、なんやかんやで2000万くらいで畑のある木の家が手に入りそうだ。
 そうは言っても、ニュータウンのあの殺伐とした町並みの中では田舎暮らしの気分じゃないよ と私も思う。これまで見てきた坪10万円以下の多くの郊外ニュータウンに「住みたいか?」といわれれば、答えはNOだ。ところが、あっちこっち見て回ると、結構変わり種があるのでアル。普通のニュータウンのすぐ裏に突如として別荘地が現れたり、町並みは普通でもすぐ周囲がハイキングコースだったり、行ってみると「オオッ」と思う場所がある。もともと、人気のない地域だから、オオッと思おうが思うまいが不動産評価は何にも変わらない。どっかのコマーシャルでスマイル=ゼロ円というのがあったような気がするけども、感動=ゼロ円なのである。これはオイシイ。
 
 土地はそれでいいとして、建物は古いものを使って大丈夫なのだろうか、という問題もある。これはケースバイケースだ。いくらモッタイナイと思っても、さすがにコリャダメダというのもあるし、ちょっと補強すれば今どきの家より立派なのもたくさんある。
これまで、耐震診断などで古い家の天井裏や床下に潜ってきた経験値から言うと、1970年代~80年代に作られた家があまり良くないケースが多い。90年代以降は、材料も工法も画一化してきて、良くも悪くもないというのが多い。60年代より昔の家は土壁だったり、使っている木材もいいものを使ってる場合がけっこうある。それより古くて、築50年を超えてくると戦後の木も物資もない時代になってしまって良くなかったりする。もちろん、あくまで傾向を言っているのであって、そうでないケースもたくさんある。
 総じて、補強をすれば充分使える家が大量にあることは間違いない。特に、70年代に大量にたてられた築30年を過ぎた住宅をどうするかがポイントだ。どこを見て、使えるとか使えないとか判断するのか、使えるならばどこをどう補強するのか、その辺は書き出したら止まらないので章をあらためて書くことにして、とにかく、そういう家がたくさんあって、それが世の中では全然人気がなくてメチャお買い得なのである。
 
 改まって言うならば、これまでの日本経済のバブルの遺産をよみがえらせようという試みだ。そう、これは不死鳥計画、フェニックスプロジェクトなのである、と大げさなことは言わないけれど、木材は戦後の拡大造林という政策によるバブル。交通の便の良くないニュータウンは明らかに高度経済成長から日本列島改造バブルの遺産。そこに建っている住み手をなくした大量の中古住宅も然り。70年代前半の列島改造景気、80年代後半の平成バブル、そんな浮かれ踊った後の抜け殻だ。
 そういうバブルの遺産を持ち寄って、新しい命の家を造れたら、これはなかなか痛快じゃないか。いかが? 畑のある木の家で子どもも大人も野菜も育つなんて、良いと思いませんか?
 
 
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  義務教育という言葉は、ほとんどの人が知っている。聞いたことない という人は珍しいんではなかろうか。
では、この義務って何だろう。義務というのは、だれかが何かをしなければならない ということだ。
誰が、何を しなければならないのだろう。
 
 おそらく、たいがいの答えは「子どもは学校に行かなくてはならない」かな。たぶん、そう答える人が一番多いだろう。現実は、たしかにそのようになっている。学校からも親からも不登校は事件のように扱われて、学校に行くのはやはり当然の義務だと思われている。
 
ではでは、本家本元の教育基本法を見てみよう。
 
第五条 義務教育
(1)国民は、その保護する子に、別に法律で定めるところにより、普通教育を受けさせる義務を負うこと。 
 
答え1 誰=国民=親
答え2 何を=普通教育を受けさせる
 
つまり、子どもが学校に行く義務ではなく、親が学校に行かせる義務 なのである。なんだ、同じことじゃないか と思う事なかれ。ことはそう単純ではない。なんでそうなったのか を考えなくては。
 
日本で初めて義務教育というものが出現したのは、明治19年に小学校令という天皇の命令が出たときらしい。
 
小学校令
第三条 児童六年より十四年ニ至る八箇年を以て学齢とし父母後見人は其学齢児童をして普通教を得せしむるの義務あるものとす
第五条 疾病家計困窮その他やむを得ざる事故により児童を就学せしむること能はずと認定するものには府知事県令その期を定めて就学猶予を許るすことを得
 
当時は授業料も取られるので、一般庶民が子どもを学校に行かせるのは、なかなか大変だった。では、学校に行かない子どもは何をするのかと言えば、もちろん家計の助けに仕事をしていた。世界中を見渡せば、今でも普通のことだ。
ユニセフの統計では、日本も含めた世界中の子どもで小学校に入学するのは90%くらい。出席率は80%くらい。中学になると、入学で60%弱、出席率は50%弱。
そのほとんどは、不登校ではなくて家庭の事情で行けない子どもであろう。そういう事情に対して、仕事をさせずに学校に行かせなさい というのが義務教育の事始めなのである。
 
ただし、明治天皇や明治政府が子どものためを思って、そのような義務教育をしたのかどうかは極めて怪しい。本当にそう思っていたのなら、授業料をタダにして誰でも行けるようにしたはずだからだ。そうせずに、金がなければ義務を免除するということは、行きたくても行けない子どもは切り捨てられていたワケだ。
では、なんで義務教育なんてことを言ったかというと、江戸時代のままの寺子屋教育では色んな考え方の人間が育ってしまうからだ。松下村塾のようなのがボコボコできてしまったら、明治政府は枕を高くして眠れない。自分たちの出自でもあるだけに、いかに危険な存在かということはよ~く知っていたはずだ。
それともう一つ、これは良くいわれるように殖産興業のためだろう。産業をどしどし発展させていくためには、ある程度学のある人材が必要だった。取締役はごく一部の士族や華族が独占するとしても、中間管理職が全然足りなかった。
 
だから、義務教育というのは、子どもを労働から解放するという目的と、国家や産業に役立つ人材を育てるという目的の二面性があるということ。
数年前に教育基本法が変わってしまったけれども、何が変わったのかというと、ここのバランスが大きく変わった。前の基本法は、義務教育=子どもの権利という考え方だったけれども、今の基本法では義務教育=国家の役に立つ人材という色が濃厚になってしまった。その最たるものが、教育の「目標」を設定したことだ。
 
第二条 教育の目標
教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとすること。
 
と、以下五つの目標を書いてある
 
一 知識と教養、真理を求める、情操と道徳心、健やかな身体
二 個人の価値、能力、創造性、自主および自律の精神、勤労を重んずる
三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力、公共の精神、社会の形成に参画、その発展に寄与
四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全
五 伝統と文化、我が国と郷土を愛する、他国を尊重し、国際社会の平和と発展
 
まあ、これだけシバリをかけたら学問の自由とは言わない。なにせ、基本法に書いてあるのだから、日本の学校ではこれ以外のことは教えたらいけないということになった。
念のため、以前の第二条は
 
学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。
 
 となっていて、結論は「文化の創造と発展」であり、その中身については学問の自由に任されていた。現実の教育現場は、ぜんぜんこんな風ではなかったけれども、とりあえず建前だけはこういうことだった。
 それが、建前をかなぐり捨てて、お国の発展に寄与しなさいと目標設定されてしまった。
 
もうひとつ、建前を見ておこう。日本も批准している国連の「子どもの権利条約」の28条1項を要約すると、
 
教育についての児童の権利を認めるものとし、この権利を機会の平等を基礎として達成するため、初等教育を義務的なものとし、すべての者に対して無償のものとする。
 
と書いてあり、子どもの権利を守るための義務教育だ ということが分かる。子どもを縛りつけるための義務教育ではなく、子どもを守るための義務教育。この精神を現場の教師の人たちも、子どもをもつ親も、ちょとは覚えておいてはどうだろうか。いくら現実とかけ離れていても、本来はそういうもんだというとは頭の片隅に置いておきたい。
 
 どうもこの章は法律とか条約とか、やたらと堅い文章が多くなってしまった。でも、それだけ私にコダワリがあるということ。義務という言葉を聞くと、ビビッと反応してしまうのだ。
 思い起こせば、小学校6年生の終わりごろ、中学へ行くのがイヤで仕方がなかった。何がイヤかと言って制服がイヤだった。学ランのデザインが嫌いとか、軍服みたいで気持ち悪いとか、信じられないくらい機能性が悪いとか、そんな問題ではなかった。中学と高校の6年間は、制服や校則との戦いだった。生徒手帳の校則を隅から隅まで読み込んだ子どもは、日本広しといえどもそうたくさんはいないだろう。
 公立の中学には、実は制服はない。標準服というものがあるだけだ。これは、義務教育だからだ。子どもの権利を守るための義務教育だから、子どもを不要に制限するようなものは、本来は認められない。だから、制服という言葉はどこにも書いてなくて、標準服と書いてある。当然、着なくてはならない、とも書いてない。ところが、じゃあ着ないというと、恐るべき制裁が待っている。問答無用だ。理屈ではこちらが勝っても、権力で押さえ込まれる。 現実は、子どもの権利を守るための義務教育ではなく、子どもに義務を強制する義務教育だった。
 高校も公立高校で、こちらは私が2年で編入したときは私服だった。学ランを着ているのはクラスで2,3人くらい。ところが、私たちの次の学年から一気に真っ黒けになった。学ランとセーラー服一色だ。3年生は私服で、2年と1年は制服という変な学校になった。うるさいのがいなくなるころを見計らって制服強制に乗り出したようだ。怒りというよりは、教師に対する軽蔑心を植えつけてくれた。理屈で勝てないと権力を振りかざし、権力でも屈しないと見るとこそこそ隠れて陰謀を練る。なんて奴らだろう。このころから、センセイという呼び方にすら嫌悪感を思えるようになった。ちなみに設計事務所をやっているとセンセイと呼ばれることがちょくちょくあるのだが、内心イヤでイヤでたまらない。
 と、そんな経緯があって、義務教育という言葉にはものすごくコダワッテいる。本当は「子どもに自由を与えるための大人の義務」なのに「子どもに義務をあたえるための大人の自由」になっている、そんな現状に怒っている。そして、それがますます酷くなる教育の改革とか再生とかに、強烈な危機感をもっている。
 
 おそらく現場の教師は、板挟みで悩んでいる人も多いことだろう。ただ悩みながらも逃げてしまうと、私の高校時代のように子どもに見透かされる。 もともとは心優しい先生だったとしても、卑怯者に見えてしまう。
 かといって、先生の置かれている状況もなかなかシビアだ。東京都の君が代強制には、ついに生徒が先生に同情するということまでおきている。「これ以上先生をいじめないでください」という戸山高校の卒業生の言葉を、日本中の教師はどう受け止めたのだろう。
 子どもの自由を守るためには、先生はクビをかけなくてはならない時代になってしまった。それはたしかに同情に値する。けど、それに甘んじていては先生の名が廃るというもんだ。それでもなお、なんとか知恵を絞って子どもの自由を守ることが、義務教育の「義務」なんだと思う。それは、もちろん親も同じだ。そして、それはできればクビにならない戦いであるべきだ。
 そこで、やっぱり頼るべきは木の力だと思うのだ。たとえば林間学校のあり方。根性出して登山をさせるという方法もあれば、森の命を実感させるという方法もある。校庭に生えている木や草だって、何気なしに見ているのと、命の教材としてみるのでは大違いだ。最近はやりの食育だって、飯の食い方まで国に指図されるという危惧もあるけれども、命のダイナミズムを子どもに実感させる機会になるかもしれない。
 木を含めた植物の力というのは、もの言わぬだけにうまく使えば強力だ。そして、その力を長い時間とどめておけるのが木の家であり木の教室だ。
 ぜひ、実践してもらいたい授業がある。子どもたちと山で木を切ろう。もちろん、その山がどうやってできてきたのか、木がどうやって育ってきたのか、しっかりと理解しつつ。自分で切った木の切り株を見ながら、山を守ってきたおじさんたちに説明してもらう。そして、自分たちでその丸太を運んでみよう。わずか直径20㎝の丸太がどれだけ重いことか。丸太を平らなところまで運んだら、今度は製材だ。近くに製材所がなければ、チェーンソーで簡単に製材できる機械なんかもある。環境教育とか何とかいって買ってしまおう。そこで、丸太は板や柱のような四角い材料に変身する。茶色い木が真っ白な木材に変身する。そこまでできたら、次は学校へ持って帰って天日干しだ。だんだん乾いて縮んでくる。2ヶ月くらいほしたら、いよいよ大工の日だ。家庭科の実習として、教室の壁に自分たちで切った木を貼ろう。画鋲も刺しやすいし、木目もきれいだし、なんと言っても自分たちで切ってきた命ある木だ。
 そうやって、命をもらって生きてるということを、きれい事でなく実感として感じることは、かならず自分たちの命を実感することになると思う。机上の勉強で、命はだいじですね みたいなのはヘタをすると逆効果で、もらった命は捧げましょうみたいなことにもなりかねないけれど、実感できた命、いとおしいと思った命はきっと大切にする。
 
 真っ正面からの戦いももちろん大切だ。けれども、こっそりと子どもの何を残せるのか、何を渡せるのかというゲリラ戦もあっていい。木の家や木の教室は、そんな可能性をもっている。
 
 
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  家を建てる場所がどこだろうと、木の床を貼る学校がどの都市にあろうと、関係者一同はまず山へ行かなくてはならない。行ってもいいとか行った方がいいとかじゃあない。行かなくては話が始まらない。
 登山やハイキングをする人なら、日本の山の特徴を知っている。登り初めてしばらくは薄暗くてうっとうしい針葉樹の森がつづいていて、しばらくするとやっと広葉樹の明るい森に抜けてなんだか嬉しくなったりする。ところが、山へ行く山はこのうっとうしい針葉樹の森のほうだ。いやいや、見る目がかわるとうっとうしいどころか面白いことこのうえない。
 山のわりと低いところに生えている針葉樹は、全部人間が植えたもの。戦前からのものもあるけれども、ほとんどは戦争に負けて街では家が焼きつくされたあとに植えられたので、日本の山の針葉樹は50才くらいの木が圧倒的に多い。なんで、家が焼けた後に植えられたかっていうと、考えるまでもなく木が売れたからだ。
 山に立っている木の値段を見ると、955年(昭和30年)に1立方メートルあたり4500円だったものが、2001年には7000円くらいで1.5倍になっているのだけれども、物価は6倍くらいになっているので実際は4分の1に値下がりしていることになる。つまり、昭和20年代は今の4倍の値段で売れたのだ。こりゃスゴイ。笑いが止まらないね。
 ところが、戦争中に大きい木はバンバカ伐って軍がもっていっちゃったから、売りたくても売る木が足りない。ちなみに、軍がどんどんいい木を買い上げていったときに間に入って大もうけしたのがブローカーとか政商とかいわれる連中だ。山の持ち主は軍の言い値で売るしかなかった。お国のため と言われて。
 話を戻そう。戦争で家が焼けてしまったので、とにかく木は売れる。これに国が追い風をブンブン吹かせたのが、拡大造林という政策だった。これまで薪や炭にしていた広葉樹の林をぶった切って杉と桧を植えろ!と大号令をかけたのだ。これがどのくらいスゴかったかというと、わずか15年あまりの間に400万ヘクタールに杉や桧を植えてしまった。400万ヘクタールというのは、なんと日本の陸地面積の1割以上で、現在の日本中の宅地面積の2倍だ。田中角栄の日本列島改造もすごかったけど、面積だけなら拡大造林のほうがずっとデカかった。
 それにしても、50年たたなきゃ売れない木を、足りないからといって泥縄式に植えたというのが今から見れば信じられないことではある。泥棒ととらえて縄をなうどころか、泥棒を捕まえてから縄の原料になる麻の種まきをするようなものだ。でも、日本中が熱に浮かされたように杉と桧を植えまくった。ほとんど素人のような人がどんどん裏山に植えたものだから、本当は杉なんかには適さない山にもドンドンどんどん植えてしまった。
 低い山の南斜面に杉を植えると、成長が早すぎて目の込んだ良い材料ができない。そのかわりに花をいっぱいつけて花粉を大量に生産してくれる、と吉野の林業家が言っていたけれどもさもありなん。拡大造林の400万ヘクタールを含めて、日本の陸地の4分の1は杉と桧と唐松が植わっていて、なかでも杉が圧倒的に多いのだから花粉症などはおきてアタリマエだろう。
 
 こんな山の歴史や花粉症の原因まで考えつつ針葉樹の森を見ていると飽きることがない。自然の勉強と社会の勉強を同時にできる生きた教材だ。そして忘れてはいけないのは、拡大造林で私たちのジジババチチハハの世代が植えてしまった杉や桧がちょうどお年頃を迎えているということ。とくに杉は、50年くらいで良い柱になる。60年を超えると床を支える梁にもなる。いくら熱に浮かされて植えられてしまった木だとはいっても木には罪はない。勢いでできちゃった子どもでも同じようにカワイイのと同じで(?)、拡大造林でできちゃった杉の木でも同じように立派な杉の木だ。
 戦後の復興というとすぐに土木建設や電機メーカー・自動車メーカーの躍進ばかりに目がいくが、拡大造林だって傾けた情熱では負けていなかった。ちょっと先見の明が足りなかっただけで。わずか50年ほど前に日本の陸地の1割もの山地に杉と桧を植えるというとんでもない大国民運動を繰り広げたことを、まるで無かったことのように忘却の彼方へ押しやるわけにはいかない。良い面も悪い面も含めて、僕らの世代は受け止めなくちゃならない。そうじゃなくちゃ、ジジババチチハハは浮かばれない。いや、なによりも立派に育った杉の木が可哀相すぎる。
 それに、あまり粗末にすると杉の木は復讐の鬼になることだってある。花粉症もそうだけれど、もっと怖いのは水だ。山へ行って針葉樹の森を見たら、まず地面に注目してほしい。根っこがウネウネと見えていて、土の表面が流れているような森は赤信号だ。植えられたまま放置されて日も射さないため草も生えず腐葉土も作られず粘土質の土がむき出しになっている。こんな森は水を貯めておくことができない。雨が降るとそのままザザーと川に流れ込むからあっという間に水かさが増え、ずっと下流で悲劇が起きる。川遊びをしている子どもを飲み込み、道路や家を押し流す。
 川はもちろん海に流れ込むから、雨に削られた草の生えない山の土は海に流れ込んで、生き物の上におおい被さって窒息させ、昆布やワカメなんかの海藻は赤く変色し、魚も激減する。
 山の土を見ると、そんなことが分かる。もし、出かけていった山の土がそんな悲しいひび割れたような土ではなくて黒くてフカフカで草や小さい木がいっぱい生えていたら、それはとても幸せな針葉樹の林だ。その山の持ち主が責任感のある人だという証拠。儲からないのをガマンして、枝うちや間伐などの手入れを何十年も続けてきたということだ。
 針葉樹の森は、杉にしても桧にしてもとてもたくさんの苗木を植える。1ヘクタール(100mx100m)に3000本とか7000本とかの苗木を植えるから、1本あたり1畳くらいの広さしかない。これではちょっと木が大きくなったら枝と枝がこすれあって押し合いへし合いになってしまうので、まず枝を切り落とす。光合成に必要なてっぺんの方は残しておいて、下の方は枝を切ってしまう。切るといっても、最初は手が届くから良いけど20年30年と育ってくると背伸びしても届かない。これをプロの木こりは巧みなロープワークでするすると木に登り枝を落としてくる。そして、いちいち登ったり降りたりするのは大変なので、木から木へ飛び移るというのだからビックリだ。ムササビもたじたじ。
 とにかく、そういうモノスゴイことをしながら枝をきるのを枝うちという。枝うちをすると森の中に光が射し込んで草が生え土が生き返る。見た目にもうっとうしい森から麗しい森へ変貌する。
 そして、もう一つ枝うちの目的は節の無い材木を作ることでもある。今どきの価値観では節の無い材木がそんなにいいとは思えないけれども、昔は節の無い材木で家を建てるのが金持ちのステータスだった。だから、金持ちに高く買ってもらうためにせっせと枝うちをしていたのだが、最近ではそこまで手入れをしている森はほんとうにわずかになった。節のない木をステータスだなどと思って大金を払う人たちが少なくなってしまったからだ。
 それでもやがて木と木がくっついてきたら、いよいよ間伐をする。間伐の方法はいろいろあって説明が難しいけれども、不要な木を切って残す木を大きく育てるということ。不要というよりは、早めに切ってしまう木と長く育てる木を分けていくと言った方が正確かもしれない。山の斜面に生えている木を全部切るのはわりと簡単だ。切った丸太を運ぶのも、全部だったら方法がいろいろある。けれども、間伐というのは、木と木の間にある木ををポツポツと切っていくから非常に効率が悪い。どの木を切るか考えることから始まって、切って倒して丸太にして運ぶ。これがぜんぶ効率悪い。だから、間伐をしない山がどっと増えてしまった。
 いくら効率が悪くても、これをやらないとただでさえ価値の下がっている杉の木が本当にタダ以下になってしまうので、かろうじて間伐はする山もある。切るところまでは補助金が出るから、とりあえず切るところまでは切る。しかし、木は切ってからが大変。たっぷりと水分を蓄えた丸太は重い。もうめっちゃ重い。これを山の中から林道まで引っ張り出すだけでも一仕事だ。さらに市場まで運ぶ手間を考えると、全然採算が合わない。で、どうなるかというと、切った木は山に捨てられる。
 土は黒くて草も低木も生えている幸せな山でも、ちょっと見回せばうち捨てられた丸太が目に入る。樹齢も40年を過ぎるようになれば、間伐とはいっても充分に柱や床や壁になるイッチョマエの木だ。それがゴロゴロと捨てられている。まるごと。(ちなみに、大阪のホームセンターでは30㎝くらいの丸太の切れ端が1500円で売られているのを私は目撃した。)
 
 山へ行くと、こうした木の受難を目の当たりにすることになる。それでも、山は気持ちがいい。ここで枝うちや間伐の体験をすると、自分も山の一部になれたような気がしてうれしくなる。木はただのモノではなくて、命をもって語りかけてくる。この体験をぜひとも子どもたちにしてもらいたい。
 学校の床に貼る木を切りに遠足に行けばいい。うちの小三の娘は直径15センチの杉を一人で切り倒した。大丈夫、小学生でもできる。
 6年生になったら修学旅行で山に泊まり込みイノシシ鍋を囲んで林業家の話を話を聞いてもいい。油の乗ったイノシシやとろりとした自然薯は子どもの感性を解き放ち、生きる実感を取り戻してくれるだろう。
 理屈や言葉じゃ説明しきれない。とにかく、山へ行こう。針葉樹の山へ。
 
 
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