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Hello 山岸飛鳥 さん     
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プロフィール
HN:
山岸飛鳥
HP:
性別:
男性
職業:
木の家プロデュース
趣味:
きこり
自己紹介:
木の家プロデュース明月社主宰
木の力で子どもたちを守りたい
田作の歯ぎしりかもしれないけど
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  夜半過ぎ、家に帰って子どもの寝顔を見る。これを生き甲斐に生きているオヤジは私ばかりじゃないはずだ。疲れが吹き飛ぶとか、明日もがんばろうなんて健気に思ったりしたりする。
 中には、それがアダになって精神的に追い詰められる人もいる。責任感の強いオヤジほど、子ども顔を見れば見るほど煮詰まって一人で抱えて追い詰められる。もちろん、それは子どもの責任じゃない。
 子どもだって、おとなしく寝ているばかりじゃない。夜寝ない子ども、夜寝られない子どもたちのことは、夜回り先生こと水谷修さんの奮闘などで世の中にも知られるようになった。もっとも、水谷先生の意に反して、ニートとか引きこもりとか、まるで根性無しのようなレッテルを貼られてしまったけれど。
 とりあえず夜は寝ている子どもだって、親の知らないところに色んなストレスを抱えている。自覚できないだけにオヤジやオカンたちのストレスより始末が悪い。ちょっとずつちょっとずつため込んで、爆発する。導火線に火がついていても、大人はぜんぜん気がつかない。
 
「リスカ」ってなんだか分かりますか?リスの仲間でもなければ、ミニスカの仲間でもない。
 「イコール自殺ではない」と水谷先生は言う。生きるために切る。僕も、水谷先生の本や雨宮処凛さんの話を聞くまでそういう名称は知らなかった。リストカット、手首切り。大人は首を切られ子どもは自ら手首を切る。
 ほとんどのオヤジ・オカンはチンブンカンプンかな。生きるために手首を切るというのは。でも、私は分かるような気がした。自分にもちょっとだけ経験があったから。高校生の頃。
 中学に入って最初の中間テストで良い点を取ってしまったのが間違いの始まりだった。その当時は、学年の順位を発表していた。廊下に貼り出していたかもしれない。今だったら新聞の一面で大騒ぎになるだろう。でも、その時はそんなもんだと誰もが思っていた。そのテストで学年で10番になったのが、ウチの親を甚く刺激したらしく、それ以降10番以下になることは許されなくなった。無言の圧力で。
 小学校のあいだは、ほとんど勉強ということをした記憶がない。漢字のテストなんて、毎回10番どころか10点だった(もちろん100点満点で)。それが急に10位以内というプレッシャー。しかも、小学校のあいだは勉強も含めてコンプレックスが強かったから、自分でもまんざらじゃあなかったわけだ。天狗になっていた。
 そんなこんなで、以降6年間の受験人生が始まった。中学のあいだは、それでもまあまあの成績になったので、勉強自体が苦しかったということはない。ただ、内申書というものがあった。言うまでもなく、テストの点に比べて、内申点は歴然と悪かった。
 内申書については、私よりも少々年長の保坂展人さんが徹底的に戦って傷ついている様子は垣間見ていた。今、社民党の国会議員になっているあの保坂展人さんだ。私のオヤジが保坂さんのお父さんと友人だったようで、よく内申書裁判の様子を聞いたものだ。
 そんな果敢な戦いはようせんかった私は、ぶつぶつ文句を言いながらも、その内申点でいける高校へ行った。(というか、私立高校は落ちた)
 超難関校ではなく東大には一人受かるかどうかというくらいの高校で、結構気楽でいい高校生活だった。制服を嫌い、紺ブレ一色の中でオレンジのジャンパーを着込んで通っていた。そのまま行けば良かったのに、家から遠かったこともあり、2年にあがるときに編入試験を受けた。神宮球場の向かいにある受験校だった。東大か早慶に入るのがアタリマエという学校。この辺から、私のネジはおかしくなっていった。
 高校三年になると、リストカットならぬ手の甲カットを始めた。左手の甲に、カッターで十字を書くのである。幸か不幸か手先が器用だったので、血が出るかでないかのギリギリで十字に切る。じわじわっと血がにじんでくると、ぐああっと煮詰まっていた気分がほっとしてまた勉強できるという、なんだか覚醒剤のような(経験したこと無いけど!)効果テキメンの方法だった。
 やはり、慣れてくると徐々に深く切るようになる。少しくらい血が出ても平気だし、何回も同じところを切るから、型がついてくる。そのまま何年も続けていたら、本当にリストカットになっていたかもしれないが、幸いにして、高三の2月で受験とはオサラバ。以降、一度も切ったことはない。
 
 なんだか長い思い出話になってしまった。とにかく、そんなことがあったので、今の子どものリスカについても、ちょっとだけ分かるような気がする。もちろん、ちょっとだけ、しかも「気がする」という程度だけれど。
 当時の思い出して感じるのは「無言の圧力」の存在感だ。自分の生命力の根っこにも枝葉にも絡みついて、どうにも身動きのとれなくなる「無言の圧力」。その当時は、これは親のプレッシャーだと思っていたけれども、今にして思えば、親は媒体に過ぎない。恐山のイタコと霊のようなもので、イタコは霊そのものではない。しかも親は親である以上、宿命的にそうならざるをえない。
 では、親を媒体にして私のところにやってきた「実態」は何かと言えば、「常識」なんだろうと思う。これがアタリマエ、という諸々の常識。価値観。私が受験勉強をしていた1970年代の後半は、急速にこの常識が固まっていった時期だ。60年代後半から70年代初頭の安保闘争や学生運動がフリーズドライのように急速冷凍されポロポロにされていった。その一方で、高校や大学への進学率は急上昇し、高校進学は1970年に82.1%が1980年には94.2%、大学進学は1970年が23.6%だったのが1980年には37.4%となる。
 こうしたことの他に、当時を思い出すとやはり、オイルショックは外せない。トイレットペーパーに殺到したのは、私が小学校6年のとき。中卒の若者を金の卵なんて言っている余裕はなくなったのだ。貧しいながらも、色んな可能性をもった時代から、ある決まった路線で金を稼いでいく時代へ、変化はいち高校生の心の上にも影を落としていたのである。
 
 それでも、当時のほとんどの中高生は「将来生きていけるかな」という不安を抱えることはなかっただろうと思う。ガッツリ稼いで自家用ジェットなんてことを考えなければ、そこそこ暮らして年に一度は家族旅行くらいはそんなに夢物語ではなかった。まじめにやっていれば生きていけた。
 そうした「サラリーマン」になることへの疑問や窮屈さを感じることはあっても、生きていくことそのものへの不安が、圧倒的多数の中高生をとらえると言うことはなかった。「常識」に縛られることをガマンすれば、食っていくことは保証された。
 それに比べると、今の中高生は大変だ。「常識」に縛られたあげくに、生きることを保証されていない。若者への寛容さは、バブル崩壊後の20年ばかりのあいだに、ますます厳しくなってしまった。イラクでボランティアをしていた今井君たちへの「自己責任」バッシング。公園で裸になっただけで家宅捜索される草彅君。学級崩壊におびえる教師は、ちょとでも「違う」ことをする子どもに目をつり上げる。
 こんなにも、息が詰まるような生き方を強制しておきながら、若者が生きていくことはまったく保証されない。派遣切りがこれだけ問題になっても、求人情報誌を見れば派遣会社ばかりが並んでいる。政府の統計でも、働いている人の1/3はパートやアルバイトや派遣や契約社などの非正規社員だ。新規の求人では、おそらくもっと高い割合になるだろう。
 そして、一番厳しいのは若者やはりだ。非正規社員の割合の変化を見てみる。24歳以下では、1988年17.2%(学生バイト含む)が、2008年には32%(学生バイト含まず)だ。学生バイトを含めるとなんと46.4%である。これも、じわじわ増えてきたのではなくて、1994年に22.2%(学生含む)だったのが、95年は26.0%、96年27.5%、97年32.3%と増え始め、2000年には40.5%(いずれも学生含む)と大台を突破して、ほぼ現在の水準になってしまう。
 ここに、99年の派遣法改正が絡んでいることは言うまでもない。25歳~34歳を見ても、88年10.7%、94年11.9%、96年12.8%、99年16.4%、2000年17.6%、そして2008年の後半は26%だ。
 
 いくら産業界の要望だったとはいえ、法律を変えてしまった官僚や国会議員はこんな結果になるとわかっていたんだろうか?もし、わかってやっていたとしたら、数千万人の怨念を一身に受けて悶絶してもらわなくてはならない。
 おそらくは、98年頃から厳しさを増した経済状況に、「この不況さえ乗り切れば昔のような食ってはいける社会にもどる」と思っていたのかもしれない。そのために、一時的に産業界を優遇して経済を立て直そう、そう考えたのかもしれない。思いっきり善意に解釈すれば だけど。
 ところが、ことはそうは進まない。99年に底を打った経済は、2000年から2008年の前半まで絶好調に成長していった。GDPは、8年間で13%も増えた。でも、それでも非正規労働者はどんどん増え続けた。何のことはない、給料減らして会社が儲けただけの経済成長だった。企業が儲けの中からどれだけ賃金をはらったかという比率は、98年の75.1%からどんどん下がり続け、2007年には69.4%だ。そのぶん、営業純益は7%から14%に倍増。
 なんて分かりやすいんだろう。給料を減らした分だけ利益が増えている。それもこれも、お金のかかる正規社員を減らして非正規社員を増やしたおかげ。労働者派遣法改正ばんざい!だ。こうして、若者の未来は食いつぶされ、なんの保証もない社会だけが残った。そこに、ドカンときたのがサブプライム問題に始まった世界同時不況だった。
 1990年代を失われた10年と言うらしいが、2000年からの10年は食いつぶされた10年と言うべきだ。若者が就職してから10年間で稼いで手に入れるはずだった給料を、ごっそり企業が先食いして自分の腹の脂肪にしてしまった。いい加減メタボが心配になって、そろそろ脂肪を減らして若者にも分配してはいかが? と言い始めるより先に、世界同時不況という赤痢にかかってしまった。今や生死の縁をさまよって、10年間吸い尽くしてきた若者の生き血のことなんて、もうすっかり忘れて去っている。キレイサッパリ。
 今の子どもというのは、こうした10年間のあいだに生を受けたり、物心ついたりしてきた。そして、世界不況にトドメを刺されたところで世に出ることになる。それを分からずに、40代50代のオッチャンやオバチャンの時代のように「ちゃんと」すれば生きていけるかのような錯覚で子どもたちに接するのは、やはりおかしいんじゃないか と思う。
 生きていける世の中を残してやれなかった責任が、僕らオッチャン世代にはある。だから、子どもに媚びろというのではなく、そういう思いを背中にしょってなくては嘘だと思う。
 
 さあ、長い前振りだった。やっと、木の家の話にたどり着いた。
 なんで、木の家で子どもを守れるのか、これから縷々書いていこう。子どもたちの健康という面ももちろんある。でも、それだけじゃあない。生きる希望を持ってもらいたい。そのための木の家、という話もある。そして、子どもを取りまく大人をナントカしなくてはならない。いつまでも時代錯誤の「ちゃんとしなさい!」を連発する大人の心を揺さぶるための木の家。
 言いやすいから「家」と言っているけれど、もちろん家ばかりじゃなくて学校や保育園や幼稚園や病院や、その他諸々の建築を含む だ。むしろ、小中学校にこそ、木を使ってほしい。コンクリートの構造体はいまさら壊せないだろうから、内装だけでも良いから、ホンモノの木を使ってほしい。まずは、その辺から話を始めよう。
 
 
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