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Hello 山岸飛鳥 さん     
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プロフィール
HN:
山岸飛鳥
HP:
性別:
男性
職業:
木の家プロデュース
趣味:
きこり
自己紹介:
木の家プロデュース明月社主宰
木の力で子どもたちを守りたい
田作の歯ぎしりかもしれないけど
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  「ちゃんとしなさい」 「早くしなさい」 「静かにしなさい」  一日に何回こう叫んでいますか? 子どもの耳には「チャント茸」が生えているにちがいない。育児書なんかを見ると「しなさい」ではなく「しようね」と呼びかけた方がいいとか書いてあるけれども、本質的には同じことだ。「ちゃんと」という枠の中に子どもを入れておかないと気が済まない。
 もちろん、言いたくなる気持ちは私も同じ親としてよく分かる。保育園や幼稚園の時間に始まって、買い物に行っても電車に乗っても子どもが「ちゃんと」していてくれないとニッチもサッチもいかない。家の中にいても下の階の人に気を使って子どもの足音に恐怖する。ましてタダでさえ髪の毛が逆立つくらい忙しい朝なんて、子どもがの~んびりオニギリを米粒一つずつかじっていたりすると思わず金切り声が口からほとばしる。「ハヤクシナサイ!!!」
 (決して、決してうちのワイフのことを言っているのではありません。あくまでもフィクションです。)
 こうして毎日と格闘しているママたちも、もちろん心のなかでは別に子どもが悪いのではないことは分かっている。オニギリを一粒ずつゆっくりと食べることに何の罪があるだろう。残して捨てるのはモッタイナイけれども、お腹に入る分にはゆっくりでも早くでもいいじゃないか。子どもがうれしくてピョンピョン跳ね回るのはアタリマエのこと。床が響こうが下の階でうるさかろうが、それはマンションなんてモノを考えたヤツが悪いのであって子どもが悪いのではない。そんなことは、ほとんどのママやパパは分かっている。分かっているけれど、いざとなるとキングギドラ顔負けに口から火を噴いてしまうのだ。
 
 私が子どもだった40年くらい前も、やはり同じように「ちゃんとしなさい」と毎日毎日言われていたような気がする。むしろ当時のほうが親は厳しかっただろう。少なくともウチはそうだった。今の子どもに当時の親のようなやり方をしたら、きっと全員グレてしまうかウツになってしまうだろう。
 じゃあなんで当時の子どもたちはそれなりに親の言うことを聞いて、あるいは聞き流して育ってこれたんだろう。それはたぶん、「ちゃんと」の規範がはっきりしていたからじゃあないだろうか。少なくとも一般庶民にかんしては、こうやって生きて死んでいくんだよというモデルコースがあった。高校までは卒業して会社に勤めて55才で定年退職して年金もらって男は70才くらい女は80才くらいでお迎えが来る。人の人生というのは、要するにそういうものだった。
 平均寿命も今よりずっと短くて、男だったら1960年で65才、1970年でも69才だった。今の65才は私なんかよりずっと元気だ。寿命が15才も延びるというのはすごいことで、これだけでも人生のモデルケースは変わってしまう。
 けれども、モデルケースが変わった原因は平均寿命が延びたせいだけではない。やはり一番大きいのは一般ピープルの中でも「差」が大きくなったということと、その「下」の方になってしまうと死ぬまで生きることが約束されなくなったということだろう。「ちゃんと」の枠の中にいてもヘタをすると野垂れ死ぬかもしれないということだ。
 経済学者のラビ・バトラという人は、日本の社会は1972年が一番豊かでその後はどんどん貧しくなっていると言っている。50代60代の人は「そんなわけあるかい。少なくともバブルまでは日本はどんどん豊かになっていったぞ。」と思うだろう。けど、ラビ・バトラさんはそうじゃないと言う。これは私の乱暴な解釈だけれども、こういうことじゃないかと思う。1972年まではみんなが必要なモノを作って経済が豊かになっていったけれども、それ以降は必要のないモノまで作ってそれを無理矢理買わされるために給料が増えていった。だから生活者ではなくて「消費者」と呼ばれるわけだ。モノを買うために生きている生物=消費者。
 生きるためにモノを買っていたはずが、モノを買うために生かされている。これはとんでもない転換だった。つまり、日本の社会の目的と手段が逆転したということだからだ。人が生きるということが、モノを買うということの手段になってしまった。モノを買う人たちがたくさんいれば、モノを買えない少数の人は野垂れ死んでもかまわないということになってしまった。
 それを法律で定めてしまったのが、1999年の労働者派遣法の改正だし、21世紀になってからドンドン進められた規制緩和や改革の数々だ。お金をたくさん使う能力のない人はどこでどうなろうと知ったことじゃないよという「改革」は、価値観だけじゃなくて制度まで逆転させてしまった。
 
 こうなると、親は子どもがドツボにはまらないようにするために目の色を変える。そら仕方ない。それが親の務めだ。むかしの「ちゃんとしなさい」は「ちゃんとしないと良い人になれないよ」という多分に倫理的なものだったけれど、今の「ちゃんとしなさい」は「ちゃんとしないと大人になるまで生きられないよ」というホラー映画みたいなこわ~いセリフなのである。
 それにしても、だ。いくらそういう事情があったとしても、毎日毎日こわ~いセリフで脅迫されながら生きていかなくてはならない子どもたちはたまったものじゃない。たとえそれが社会の現実だったとしても、そんなむき出しの現実をグリグリねじ込まれながら毎日を過ごさなくてはならないなんて。
 子どもには笑って生きる権利がある。これ、絶対の真理だと私は信じて疑わない。ニューヨークだろうがバクダッドだろうが、ガザだろうがエルサレムだろうが、子どもは笑って生きる権利がある。日本はまだ爆弾は落ちてこないけれど、とにかく酷い現実があればあるほど、そのことを大人が考えてあげなくちゃならない。子どもには笑って生きる権利がある。
 だから、生きることが困難になっていく今だからこそ、子どもたちには笑って生きる余地をキープしてあげたい。夜回り先生の水谷修さんが言う「いいんだよ」という言葉。転がり落ちないためにはたしかに良くないのかもしれないけど、それでも過ぎてしまったことは「いいんだよ」という。そういう余白をキープしてあげたい。
 そのための一つの手段が、木の空間だと思うのだ。前にも書いたけれども、木という素材はバラツキがある。強度も模様も手触りも、一本一本、一箇所一箇所ぜんぶ違う。それでいて、一つのまとまりのある落ち着いた空間を作ってくれる。これ木じゃなくて、たとえば高島屋と大丸と伊勢丹と三越の包み紙を並べて貼ったらワヤクチャな空間になってしまう。でも、木ならばそんなことにはならない。ちゃんとしていないのにちゃんと空間を構成している。
 こんな木の空間に包まれていると、まず大人が「ちゃんと」という強迫観念から逃れることができる。少なくともやわらげてくれる。木の表情を見ていると、ちゃんとにこだわっているのがアホらしくなってくる。なにせ、バラバラなのはもちろん、隙間はあくし反り返るし傷はつくしシミもつくし、まるでラップ現象のようにパキンと鳴ったりもする。それでも、なぜか気持ちのいい空間なんだなあ、これが。
 ただ木の空間だというだけでも効果があるけれども、これが自分たちが山で切ってきた木だったりすると、もうベリーキュートだ。木の人生、じゃない木生なんかも思いだしつつ伸び縮みする様子が可愛く思えてくる。こうして親子でニッコリする瞬間は、「ちゃんと」の時間ではなくて「いいんだよ」の時間だ。
 もちろん、木の空間にしたら口から火を噴かなくなるとか全部解決するとかいうことではない。でも、人間は環境にものすごく影響される。満員電車と静かな湖畔で同じ精神状況になる人はいないだろう。木と人の関係についても、ある程度のデータは実験されているやアンケート調査なんかで発表されている。これについては、別の章でまとめて紹介することにして、ここで私が言いたいのは「ちゃんと」してなくてもいいじゃないかということ。そのお手本が木の空間だということ。そして、木の空間にいると「ちゃんと」してることがだんだんアホらしくなってくるということ。
 キングギドラに変身しそうになったなら、そっと壁の木に手を当てて深呼吸してみよう。きっと、ひゅるひゅると人間に戻るから。


 
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