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Hello 山岸飛鳥 さん     
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プロフィール
HN:
山岸飛鳥
HP:
性別:
男性
職業:
木の家プロデュース
趣味:
きこり
自己紹介:
木の家プロデュース明月社主宰
木の力で子どもたちを守りたい
田作の歯ぎしりかもしれないけど
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  小学校3年生の娘が、いきなり「ちのつながりってなに?」とカミさんに聞いている。カミさんもちょっと驚いてなんやらかんやら言いながら説明している。お母さんとの血のつながりはわかっても、お父さんは?と聞かれたらどう答えようかとオロオロしていたけれども、幸いお鉢は回ってこなかった。
 正確には、血はつながっているのではなく、遺伝子がつながっているだけだ。お腹の中にいるときだって、血液自体は別に流れているのに、なんで血のつながりというんだろうか。血族とか血脈とか血は水より濃いとか、生んだものと生まれたものとの関係は単なる親と子という関係を超えて「血」という連綿と続くものに帰属させられるようだ。
 親と子の関係は、自然の摂理からしても赤ちゃんは育てなくては死んでしまうという事情から理解できる。けれども、長い長い「血」のつながりはどう考えても自然の摂理からは理解できない。もっと社会的な必要から生じているにちがいない。要するに、争いのための基本集団づくりということ。争いではなくて、生産のためだけの集団化であれば血脈にこだわる必要はなかっただろうが、狩りのなわばりや水の権利や何やかんやで争いの絶えないとき、できるだけ結束を固めて裏切り者を出さないために血脈が重視されたのではないだろうか。
 
 今の家族関係には、その両方の面が残っているような気がする。赤ちゃんを育てるための親子関係と、社会の中で争うための血族集団。育てるという気持ちは、ほとんどの場合は説明が必要ない。義務感でも責任感でもなく、赤ちゃんを見ているだけで育てたいという気持ちは湧き出してくる。
 一方で、争うための集団としての家族はなかなか大変だ。世の中が生き難くなればなるほど、その締め付けは厳しくなる。比較的平和で、争わなくても生きていけるときには、その締め付けはゆる~くなる。どっちが良いとかいう話ではなくて、結果としてそうなる。
 江戸時代や戦争中に家族の制度が非常にきついものだったのはご存じの通り。オヤジの権威は今の100倍以上強かった。囲炉裏端の主人が座るヨコザは、お客ですら座れなかったという。まして子どもが座ろうものなら、家からおん出された。それから数十年たって1970年代、高度経済成長を経た日本にはマイホームパパが出現し、家族は仲良し集団に解消されつつあったのだが、それを押しとどめたのは受験戦争だった。争いの形態が変化するに伴って、家父長を中心とした家族制度は、子どもを中心とした受験装置に変貌した。かつての主人の座だったヨコザの地位は、子どもの勉強部屋にとって代わられた。夫婦が台所の片隅に布団を敷いて寝ていても、子どもの勉強部屋は確保された。
 これはもちろん、子どもが大事にされたということではない。過保護であろうがスパルタであろうが、受験戦争に駆り立てられた子どもは、かつて戦場で手柄をたてて一家をもり立てようとした家長の姿と重なる。その後、「ゆとり教育」がいいとか、いや「言うとおり教育」がいいとかいろいろ議論はあるけれど、そんなのは大同小異であって、子どもを現代社会で戦って勝つための「兵士」として扱っているのはおんなじだ。
 
 今、親になっている世代は、受験戦争の勝ち組か負け組だ。必死に勝ち抜いてきた親は、子どもにも勝ち抜いてもらいたいと思うし、勝てなかった親は子どもには勝ってもらいたいと思う。しかも、勝ち負けは受験だの単純なものではなっている。受験だけならば早々に勝負を降りてしまう生き方も考えられるのに、多種多様な子どもを「開発」するツールやメソッドがあふれかえり、そう簡単に負けさせてくれない。多様化と言えば聞こえはいいが、生き方自体の多様化ではなく、勝ち抜くための手段の多様化なのである。
 こんな時代に子どもを育てるプレッシャーはとてつもなく大きい。なにがどうなっても、それなりに生きていける世の中ならば、子どもが死なないように助けてやれば親の務めは果たしていると言える。子どもが育っていこうとするのを、支えてやればいい。ワガママな子はワガママなりに、気の弱い子は気の弱いなりに、それなりに育っていく。少しは軌道修正も必要だろうけれど、親がどうのこうの言ったからといって急に聖人君子になりはしない。
 ところが、道を踏み外したら生きていけないような社会では、そんな悠長なことを言ってられない。鳥の親が飛び方を教えるように、厳しくしつけてあるべき形に育てる必要がある。それを達成できない子どもは見捨てられる。飛べないなら飛べなくてもいいんじゃないの なんてことは絶対に言ってくれない。だから、親に「子どもはこう育てなくてはならない」というプレッシャーをあたえれば、必然的に幼児虐待はおきる。ライオンが子どもを谷に突き落とすなんていうのは、立派な虐待じゃないの? 餌をとって身を守る、あるいは集団生活に適応するという点では、動物はきわめて厳しいスパルタ教育をするし、それで命を落とす子どもも数知れずいるはずだ。
 もちろん、それと同じことをしていいと言うのではない。ではないが、そういう心のシステムが働いているのではないかと思ってしまう。子どもが「あるべき」からはずれていると、ムカムカっとくる衝動がわき起こってくる。それを押さえられるか押さえられないかが、虐待になるかならないかの分かれ目であって、心の中では同じなのではないか。
 幼児虐待の件数は、表沙汰になっているだけで3万5千件とかいわれている。0~4歳の子どもの人口が540万人程度だから、表沙汰でない件も多いことを考えると、子どもの100人にひとりは虐待されているということだろうか。う~ん 言葉もない。イライラの度が過ぎる程度のものから死なせてしまうものまで事情は千差万別だから、ひとくくりにコメントはできないのはわかる。が、この数字を見ると、やはりさっきの仮説が正しいのではないかと思ってしまう。
 
 熊本県の慈恵病院には「こうのとりのゆりかご」という小さな窓口がある。俗に赤ちゃんポストと呼ばれている。親が自分で育てられない赤ちゃんを預ける場所。これは大きな反響をよんで議論百出した。それから2年間で、42人の子どもが預けられたという。どんな事情で預けたのかはわからないが、とりあえず42人の命が救われたことは良かったと思う。いや、本当に良かったかどうかは42人の彼ら彼女らが後日自分たちで判断することだけれども、少なくとも、判断する機会だけは奪われなかった。
 ここへ子どもを置いていった親たちは、おそらくお釈迦さんの言葉に従ったわけではないと思うが、仏教では親が我が子を思う気持ちを「執着」としている。シュウジャクと点々をつけて読む。要は、人間の心の中にある不幸の元だ。子煩悩なんていうと、子どもをかわいがる優しい親父のことみたいだけれども、本当は全然違う。我が子をかわいいと思ってしまうことが、不幸の始まりだというのだ。
 それならば、過保護すぎてかえって子どもを不幸にしてしまう親のことを言っているのだ、と思うと必ずしもそうでもない。もとより私はお坊さんではないので出過ぎた解説はご容赦いただきたいが、敢えて言うと、我が子だけ、自分の子だけは、この「だけ」が不幸のもとのようだ。別の言い方をすると、自分「の」子どもという考え方、もっと言うと、子どもが自分の所有物だという感覚。それは、自分だけは大事にしてほしいという思いの裏返しでもある。
 そう思うと、慈恵病院に子どもを預けていった親は、自分の執着よりも子どもの命を優先したということなのかもしれない。そして、そこにかすかなヒントが潜んでいるような気がする。子どもは子どもなんだ、自分とは別の生き物なんだ、という一種のあきらめを、あらかじめしておくこと。自分は子育てなんて上手くできるわけがない、とあらかじめ観念しておくこと。
 夜回り先生・水谷修さんも、親は子育ての素人だと喝破している。考えてみたらアタリマエのこと。生まれて初めてか、せいぜい2回か3回しかやらないことなのだから、素人に決まっている。死なない程度に助けることは、もしかしたら脳みそにプログラムされているかもしれないけれども、それ以上の複雑怪奇な現代社会での子育ては、まるっきりの素人。さすが、するどいなあと感心した。ま、そういう体験をイヤというほどしてきたから言えるのだろうが、私たちも実は結構体験してきているハズなのだ。体験しているけれども、それを率直に素人ですと言えなくて、なんとかしようナントカしようともがいて苦しんで、それが虐待になっている。たぶん、そういうことではないのだろうか。
 
 話は、子ども部屋に戻る。子ども部屋をどうするか、というのは家のプランを作るときにいつも問題になる。6畳の子ども部屋を人数分、というのが70年代後半からのスタンダードだ。そして、その子ども部屋は玄関から入ってすぐの階段につながっていて、親の顔を見なくても家を出入りできるようになっている。
 これこそが、子どもの非行の原因だ! という大騒ぎがいつから始まったのか。時期は定かではないが、「家をつくって子を失う」という本が1998年に出版されたのが大きなエポックになったと思われる。また「子供をゆがませる「間取り」」が2001年に出版され、オタク系の犯罪は家の間取りのせいだということになってきた。
 今では、10人中9.5人くらいは大きな子供部屋はいらないという。ベッドと着替えだけは個室にして、勉強は共有スペースでというようなことを言われるケースが非常に多い。非常に多いのだが、実際はどうなるかというと、すったもんだしたあげくに、ほとんどの場合そこそこの子ども部屋ができあがる。建前と本音は別なのだ。非難しているのではなくて、そういうもんだということを知ってほしいから書いている。
 どっちかというと非難したいのは、極めて限られたデータで「間取りが非行を生む」と決めつけた大先生たちのほうだ。先ほどの「子供をゆがませる「間取り」」の内容紹介にはこう書いてある。
<新潟少女監禁事件、酒鬼薔薇事件、金属バット両親殺害事件…。凶悪事件の病巣は、彼らが育った家の「間取り」にあった!>
 ホントかよ。たったこれだけの「症例」でああだこうだ言えるモンなのか? そんな疑問も感じつつ、大事なことを見落としていませんか?という思いが強くなる。子ども部屋が問題なんじゃなくて、子ども部屋に何をさせようとしたのかが問題なんじゃないの?
 子ども部屋には、親の執着、その執着を生み出した社会の構造、その構造を生み出した利権と欲望、そんなものが込められている。呪いの部屋みたいなそんな場所に閉じ込められたら、子どもだってそりゃ影響がでるだろう。問題は、部屋のあるなしや大きさではない。どんな気持ちでそれを作るのか、あるいは作らないのか だ。
 
 
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