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Hello 山岸飛鳥 さん     
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プロフィール
HN:
山岸飛鳥
HP:
性別:
男性
職業:
木の家プロデュース
趣味:
きこり
自己紹介:
木の家プロデュース明月社主宰
木の力で子どもたちを守りたい
田作の歯ぎしりかもしれないけど
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  最初からずっと「子どもを守れ」と言い続けている。で、子どもの何を守るんだろう、と自問自答してみた。もちろん命も守らなくちゃならないし、命までいかなくても健康も守らなくちゃならないし、健康にも体の健康も心の健康もあるわけだし、今だけでなくて将来も守らなくちゃならないし、将来にだって将来の社会や経済という意味もあれば環境という意味もある。考えていけばもっとあるだろう。こんな何でもかんでもを「木の家」で守るなんて無謀な話だし、夜郎自大、大法螺吹きの類になってしまう。
 つきつめればやはり、心を守るってことなのだと思う。そう言いつつ、最近は「こころ」という言葉をすごく使いにくくなったとも思う。何でもかんでも「こころ」の問題、「こころ」のせいにして、「こころ」さえナントカすればすべて解決するかのような主義主張がまかり通っているからだ。
 その代表選手が文部科学省のやってる「心の教育」「心のノート」だろう。小学校低学年、中学年、高学年、中学生と4種類の心のノートっていうのがあって、それぞれに「これがいい子ちゃんですよ」という道徳を書いてある。まあ、書いてあること自体はそんなに無茶苦茶なことではない。子どもがみんなこんないい子ちゃんだったら気持ち悪いなとは感じるけれど。「思いやる心」とか「地球に生まれたことの意味」とか「人類の平和と幸福」なんて言葉が並んでいる。
 ただ、どうしても余計なお世話っていう気がする。というか、こんなものを読んで「うん、そうだなあ」なんて心から納得する子どもがいるんだろうか? 少しはいるかもしれないけど、ほとんどはいい子になるための通過儀礼として覚え込んでいるか、しらけた目で見ているか、ではないだろうか。いずれにしても、きれいごとに過ぎないことは肌身で感じているはずだ。なぜなら、ほとんどの大人がそんないい子ちゃんな生き方も考え方もしていないからだ。子どもの目はしっかりと見ている。
 思いやる心なんてかなぐり捨て、地球に生まれたことの意味なんて1年に30秒くらいしか考えることなく、人類の平和と幸福に至っては本気で考えたら会社をクビになったり最悪は逮捕されたりする、そんな大人の姿を目にしながら、「心のノート」を読む子どもたちは何を感じるだろうか。それはたぶん、戦略としてのいい子ちゃん、生き抜く知恵としてのいい子ちゃんだ。もっとありていに言えば、本音と建て前、裏と表の使い分けを覚えていく。そういう使い分けをできるようになった子どもは、心に大きな負担を抱えながら社会に適合して生き抜いていく。限界に達するまでは。
 使い分けのできない子どもは、最初から規格外として選別されていく。それは、きれい事を本気で信じてしまった場合でも、きれい事なんてバカじゃないのとホリエモンのような生き方をした場合でも。
 
 ちょっと余談になるが、教育や子育ての本のコーナーには「キレる子ども」とか「学級崩壊」とか「いい子が危ない」とかの言葉が氾濫している。そして、その多くがそうした子どもの心の中をほじくり回してあれこれ解説している。たまに、毛色が変わっていると思ったら「イジメは犯罪だから告訴せよ」みたいなことが書いてある。
 こうした本の著書も、結局同じ精神構造なのだ、たぶん。戦略としてのきれい事を身につけた評論家は、子どもの心を解説し教師や親の心を解説してご自分の道徳心を天下に表明している。逆に、きれい事なんてバカらしいという論者は「イジメは逮捕しろ、告訴しろ」と叫んで世間の耳目を集める。すべての子どもたちがこういう評論家と同じくらいしたたかで器用ならばいいのだけれど。いや、よくはないか。すべての子どもがこんなだったら、世の中はいよいよ修羅場だ。
 とにかく、子どもはもっと不器用に無理を重ねていい子ちゃんになるか、綺麗でない現実とぶつかるか、さもなければきれい事と喧嘩しながら野獣の生き方をしなくてはならない。それ以外の選択肢はない。どこを探しても。こうなると、親としてできることなんてホントにたかがしれている。せいぜい、いい子ちゃんになりすぎないように気をつけてやるくらいしかない。勉強しすぎないように、本音のワガママを口に出せるように。いいこちゃんの規格から外れたときに「いいんだよ」と言ってやる、「いいんだな」と感じる余裕をもたせてやる。そんな、スキマのようなことしかしてやれない。ゴメン。
 
 「心の教育」と必ずセットになっているセリフが「何でも世の中のせいにするな」だ。たしかに、世の中のせいにしても始まらないということは多い。毎日の現実を生きている以上は、世の中が悪いといっても飯は食えない。四の五の言っている間に飯の種を見つける方が先決だ。それに、そうしてナントカなるうちは、一歩でも前に進んでいる方が気分もいい。私自身も、1990年から2005年までの15年間はそう思って、ひたすら働いて生きていた。
 でも、やっぱりなんか変だと思ったのが2005年9月11日の選挙だった。あの小泉劇場といわれた郵政選挙。これはエライことになるという予感にゾゾッとなった。人類が始まって以来良い世の中なんてなかったのだから、少々ガマンして生きなくてはならいのはこれは仕方ないかもしれない。でも、ガマンには限度がある。それを超えるようなことになると、きっとワケの分からないことがいろいろおきてくる。やばいなあ。と思った。
 人間の体でも交感神経と副交感神経とか、ホルモンとか、いろんな拮抗するものがバランスを保って生きている。外敵から身を守る免疫だって、強すぎるとアレルギーになるし弱すぎたらエイズみたいにちょとした風邪で死んでしまう。(医学は専門じゃないので適当な言い方です。あしからず。)
 政治の世界も、あまりにもひとつの勢力が強すぎるとロクなことにならない。あーだこーだ良いながら喧嘩しつつもナントカ生きていけるというのがいいんだけれども、小泉劇場はそんな均衡をぶち破ってしまった。
 その前兆も感じてはいた。郵政選挙の前年、2004年4月におきたイラクでの人質事件だ。人質事件というより、自己責任事件といった方が日本では覚えている人が多いかもしれない。ジコセキニンの大合唱がくり返しくり返し報道されたことは覚えていても、その元になった事件は風化しているんじゃないだろうかと、ちょっと心配だ。
 2004年4月7日に、イラクのファルージャで3人の日本人ボランティアが武装グループに拉致され、犯人グループは自衛隊のイラクからの撤退を要求した。これに対し、捕まったのは「自己責任」だ(だから自衛隊の撤退はするな)という、ジコセキニンの大合唱がまきおこったのだった。そんな風に記憶している。
 このときは、本当に心が寒くて寒くて、この国の人たちはどうなっちゃったんだろうと思った。家すらないストリートチルドレンの支援したり、放射能をまき散らす劣化ウラン弾のことを調べたりしていた日本人ボランティアに、なんで言葉を極めて憎しみを投げつけるんだろう。だいたい、ジコセキニンを合唱している人たちこそ、どれほどの責任をもってその言葉を発しているのか。もしそれは間違いだったと分かったら、どうやってジコセキニンをとるつもりなのだろう。おそらく、テレビで顔をさらしてしゃべっている人ですら、ちょっと時間がたてばしらっと忘れて責任なんてとるつもりは、さらさら無いんだろう。
 「世の中のせいにするな」という御説をたまわると、どうしてもこういうことが頭の中を去来する。あのジコセキニンという大合唱が、地鳴りのように聞こえてくる。
 
 しかし、あれから何年もたって考えてみると、自己責任という言葉自体に矛盾があることに気がつく。簡単に言えば、馬から落ちて落馬して、の類だ。責任というものは、当然というか自動的にというか、自分にくっついているものだ。私に責任があるとは言うけれども、私に自己責任があるとは言わない。彼に責任があるとは言うけれども、彼に自己責任があるとは言わない。そもそも、責任というのは自己責任以外ではあり得ないからだ。
 なのに、あの事件以来、普通の日本語の中でも自己責任という言葉がよく使われるようになった。地域の運動会の呼びかけでも、「事故やケガについては自己責任でお願いします」なんて調子で。もう不自然とも感じないくらいよく見かける。じゃあ、以前はどのように書いてあったのかと思い起こしてみると、たぶん「事故やケガについては(主催者は)責任を負いかねます」ではないだろうか。町内会は参加者のケガには責任追いません、という言い方だったハズだ。同じことを言おうとするとそうなる。
 この言い方だと何が違うのかというと、主催者の責任範囲が明確だ。主語が主催者だから。町内会は、ここまでは責任とりませんよ、と宣言することになる。当然、それはちょっと冷たいんじゃないの とか ちゃんと保険に入って責任持つべきだよ という異論も出てくる。
 ところが、自己責任でお願いします というと、運動会の主催者である町内会の責任範囲は語られていない。参加者の責任を問うているだけで、「責任感のある子どもになれ」と教育されてきた圧倒的多数の人たちは、そりゃそうだ と妙に納得してしまう。
 つまり、自己責任という言葉は、主催者側が「責任をとりません」と宣言せずに責任をとらないための言い回し、新造語なのである。ややこしくて恐縮だけれども、「責任をとらない」と決めるのもある意味の責任だ。たとえば責任とらないと決めたことに対して、あとから「法的に責任があるよ」と言われたら、決定した人は無責任の責任をとらされる。
 ところが、自己責任でお願いします と言えば、主催者は責任があるのか無いのか、何も言わなくていい。主催者側は、誰も何も責任をとる必要がない。本格派の無責任だ。
 
 心の教育やらの「いい子ちゃん」押しつけ教育と、「自己責任」という究極の無責任とは表裏一体だ。そりゃそうだ。責任を持って「いい子ちゃん」になれなんて、誰も言えない。言った自分にはね返ってくるからだ。自分はどうやねん!! と言われて、ふんぞり返ってみせる下卑た大人はいるかもしれないが、だいたい道徳を得々と説くオッサンほど、陰では色んなことをしている。ソンナノカンケイネー(古!)、いい子ちゃんになるのは自己責任だ と言わなくては道徳教育なんて成り立たない。文部科学大臣から現場の教師に至るまで、いったい道徳に責任をとれる人間なんて何人いるのか。というか、そんな人間が地球上に存在するのか??
 子どもたちは、だれも責任をもってくれない「いい子」を押しつけられて、いい子になれなかったら、あるいは ならなかったら、自己責任で冷や飯を食わされ果ては処罰される。これが、今の子どもたちの立ち位置だろう。
 油断という言葉は、王様が臣下に油の入った容器をもたせ、一滴でもこぼしたら命を断つ と言ったのが始まりだとか。今の子どもは、まさにこの臣下のようにギリギリの緊張を強いられながら生きている。ほとんどの子どもは、そこまで自覚はしていないだろうけれども、学校の廊下を行き交う子どもたちの頭の上には、見えない油の壺が乗っている。
 そんな子どもの緊張感をゆるめるには、いい加減な見本を見せてやるのがいい。クレヨンしんちゃんもやや当初の勢いを失いつつある昨今、いい加減の見本ていうのは実はなかなか見つからない。もちろん、何でもカンでもいい加減にすればいいと言うものでもない。親や教師がやたらといい加減では、子どもはますます捨て置かれてしまう。ただ、あるがままで子どもとつきあうこと、あるがままの子どもを受け入れること、そんな関係がちょっとでもつくれたらいいなあ と思うのだ。
 で、話は4章の「ちゃんと"していない"木」につながる。4章でも書いたとおり、木というのは全然ちゃんとしていない。いい加減の見本としてはこれ以上のものはない。勝手に伸びたり縮んだりするし、模様だってこの世に二つ同じものはない。
 ところが、木をちゃんとさせたい建築業界は木に道徳を押しつけた。まっすぐであれ、縮んではいけない、木目はすっきりと・・・。そして、木の中の「いい子」の部分だけを貼り合わせて集成材というものをつくり出した。たしかに建築である以上、強度を確保しなくてはならないし、けつまずいたり指を挟んでケガしたりするのは困る。人間の場合とまったく同じメンタリティーで木を扱うつもりは、私にもない。けど、それでもなお集成材みたいな道徳的な木はあまり使いたくないと思う。できるだけあるがままの木を使いたい。できれば節も木目もそのままの木を使いたい。
 そういう木で包まれた空間は、ほんのちょっとかもしれないけれど、子どもの「油断しちゃいけない」という緊張を和らげることができる。暗い部屋でひとり、木の壁にほっぺたをくっつけると、「ああ拒絶されていないんだ」という感覚を味わうことができる。なんだか根拠はないのに
「大丈夫」という気がしてくる。そういう芯のあるいい加減さを、木はもっている。
 油の壺をもって生きている子どもたちを解放してやれるわけではないが、いい加減さをお互いに受け入れる時間と空間があることは、きっと大きな助けになるだろう。
 
 
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自己責任に関する考察は言語論としても納得。
杉並嵩 2009/05/17(Sun)14:07:57 編集
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